「小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代」の版間の差分

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:そうすると、田を持っている農民や自ら開墾した荘園を持っている地方豪族などは、自らの荘園を有力な貴族や寺社に寄付して、収穫の一部を差し出し、それよりも多い税を逃れようとします。11世紀頃には、これが進んで朝廷が税を取れる土地と荘園はほぼ同じ規模となりました。また、税をおさめないと言うことは、朝廷の役人の立ち入りも必要ないであろうと言うことで、荘園に役人が入れなくなりました<span id="不入"/><ref>これを「{{ruby|不入|ふにゅう}}(=はいらない)」といい、そうすることができることを「不入の権」と言います。「不輸」とあわせて、「{{ruby|不輸不入|ふゆふにゅう}}の権」といい、荘園の特徴とされます。</ref>。こうして、荘園は朝廷から独立したもののようになりました。
 
=== {{Ruby|摂関|せっかん}}政治 ===
[[File:Fujiwara no Michinaga Face.svg|thumb|{{Ruby|藤原道長|ふじわらのみちなが}}]]
:藤原氏の初代[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#中臣鎌足(なかとみのかまたり)|藤原鎌足]]は、大化の改新を[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)|天智天皇(中大兄皇子)]]とともになしとげた、天智天皇から最も信頼の厚い家臣でした。鎌足の子の藤原{{Ruby|不比等|ふひと}}は、律令の制定や平城京遷都に大きくかかわり、また、[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#聖武天皇(しょうむてんのう)|聖武天皇]]の母の父で、聖武天皇の皇后光明皇后の父と言う関係にありました。不比等の孫の藤原{{Ruby|百川|ももかわ}}は、称徳天皇の死後、光仁天皇や桓武天皇の即位に力をつくしました。
:このように、平安時代以前においても、'''藤原氏'''は、天皇の近くにあって、天皇をもり立ててきました。
:平安時代に入ると、藤原氏は、つぎつぎと娘を天皇の{{ruby|妃|きさき}}(妻)にし、この子が天皇になるなど、天皇家との関係を深めました。一方で、藤原氏以外の貴族については、様々な手段で排除され、10世紀には高位の貴族は藤原氏だけと言うことになりました。<span id="下向"/>中央で役職を得られない貴族の中には、地方に荘園を開いて移住する者もいました。
:藤原氏は、天皇がおさないときは'''{{Ruby|摂政|せっしょう}}'''という役で、天皇が成人してからは'''{{Ruby|関白|かんぱく}}'''という役で天皇に代わって政治を行いました。このような政治を、「摂政」と「関白」から、「'''{{Ruby|摂関|せっかん}}政治'''」といいます<ref>藤原氏も、時代がくだってくると多くの家に分かれます。その中で、ずっと、天皇のそばにいて摂政や関白を出した家を、{{Ruby|摂関家|せっかんけ}}<span id="摂関家"/>といいます。</ref>
:摂関政治の代表的な藤原氏に11世紀の人である'''{{Ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#藤原道長(ふじわらのみちなが)|藤原道長]]|ふじわらのみちなが}}'''がいます。
:道長は、娘四人を天皇の{{ruby|妃|きさき}}とし、その娘が産んだ三人の孫が天皇になり、藤原氏の全盛期をきずいたと言われます。