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== 戦国時代の到来 ==
=== 下剋上と戦国大名 ===
室町時代の後半は、応仁の乱がきっかけで各地に領土獲得のための争いが広がった。この室町時代後期の日本各地で戦乱があった時代を {{中付きルビ|2|戦国|せんごく|時代|じだい}}と言い、戦乱が続いた。応仁の乱で、守護大名が京都に出向いて兵を指揮していたころ、国もとに残っていた家臣らが実権をにぎるというということが起きた。他にも、各地で、身分が下の者が、守護大名に取って代わろうとして争い、大名になった者たちが現れ始めた。このように身分の下のものが身分が上の大名を倒して、新しく大名になることを{{Ruby|'''下克上'''|げこくじょう}}という。
そして、戦国時代の大名を'''戦国大名'''という。戦国大名の多くは、下克上によって、大名に成り上がった。
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このようにして、信長の支配権の争いに秀吉は勝って行き、信長の領地を受け継いでいく。
1583年に秀吉は、大阪にあった石山本願寺(いしやまほんがんじ)の跡地(あとち)に'''大阪城'''(おお
そのあと、秀吉は各地の大名たちを平定し従えていきます。徳川家康も、秀吉は従えさせた。
1585年、羽柴秀吉は朝廷から '''関白'''(
1586年、羽柴秀吉は朝廷から'''豊臣'''(とよと
そして秀吉は、各地の大名どうしに争いをやめるように停戦命令として惣無事令(そうぶじれい)を1585年に出す。停戦命令に従わなかった九州の島津(しまづ)氏は、1587年に征伐され屈服させられた。
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=== 秀吉の政策 ===
* 太閤検地(たいこうけんち
農民から年貢を取るための土地の調査を'''検地'''(けんち)という。
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検知そのものは信長の時代からも行われていたが(※ 教育出版などの検定教科書に記述がある)、さらに秀吉は各地でちがっていた物さし(ものさし)の長さや ます の容積などを統一し、また、全国の田畑の面積や土地のよしあしを調べた。(※ 信長はそもそも全国統一してないので、物差し などの全国統一のやりようがない。日本を全国統一したのは秀吉である。)
マスの基準(きじゅん)は、京都で使われていた京枡(きょう
そして検知の記録によって、田畑の面積や、田の収穫高である'''石高'''(こくだか)、その田畑を耕す農民の名前などが記録される 検地帳(けんちちょ
検地帳によって耕作者が、はっきりしたので、農民は田畑を持つ権利を認められたが、同時に年貢(ねんぐ)をおさめる義務をおうことになり、土地を勝手に離れる(はなれる)ことができなくなった。
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* 朝鮮出兵の結果:
::・日本の諸大名などからの豊臣氏への信用が弱まり、のちに、豊臣氏が没落していくキッカケの一つになる。
::・朝鮮に、大きな
::・
::・朝鮮の
有田
検定教科書によっては、「朝鮮侵略の際に、儒学の一派である
朝鮮出兵の当事、朝鮮王朝が官学として朱子学を採用していた。江戸時代に日本で朱子学が、はやることになる。江戸以前は、あまり朱子学は、はやらなかった。儒教についても同様で、古代から日本に伝わっており、けっして朝鮮出兵で日本に儒教が伝わったのでは無い。江戸時代に朱子学のはやるきっかけの一つの可能性かもしれないが、可能性であり、定かではない。
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逆に日本からの輸出では、銀や刀や茶などが輸出され、catana(「カタナ」、刀のこと)などのポルトガル語の由来になった。屏風がbiomboに、坊主がbonzoに、伝わった。
* 芸能
浄瑠璃(じょうるり)と歌舞伎(かぶき)
[[画像:Shitahaku_kejo.jpg|thumb|150px|三線(さんしん)]]
:* 三味線(しゃみせん)と浄瑠璃(じょうるり)
琉球から 三味線(しゃみせん)のもとになる三線(さんしん)が日本に伝わった。日本で 三味線(しゃみせん)として発展した。民衆のあいだでは、三味線の音色に合わせて、人が物語をかたるのを見て楽しむ浄瑠璃(じょうるり)が流行る。この浄瑠璃は、さらに発展し、人の代わりに人形を使う人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)へと発展した。
[[File:Izumo no Okuni.jpg|thumb|left|出雲(いづも)の阿国(おくに)。歌舞伎踊り。(かぶき おどり)で、念仏踊りをしている。 『国女歌舞伎絵詞』(くにじょ かぶきえ ことば)]]
:* 歌舞伎(かぶき)
:「出雲(いづも)の阿国(おくに)」という女が始めた歌舞伎踊り(かぶき おどり)が人気(にんき)になる。出雲とは、今でいう島根県。当時は異様な服装や行いをすることを「かぶく」(傾く)と言っていた。
のちの江戸時代には歌舞伎は演劇となっていき男だけが歌舞伎を行うことになるが、この安土桃山時代には女が歌舞伎踊りをしていた。
衣服では、小袖(こそで)が普及していった。木綿(もめん)の衣服が、麻にかわって一般的になった。民家の屋根には瓦屋根(かわら やね)の様式が京都などでは増えていった。
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