「小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代」の版間の差分

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:貴族には、天皇家の子孫(源氏、平氏、在原氏、清原氏など)や、大和政権からの豪族や部民の子孫(安倍氏、大伴氏、紀氏、菅原氏など)、天皇の近臣の子孫(橘氏など)がありましたが、中でも有力であったのは'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#中臣鎌足(なかとみのかまたり)|藤原(中臣)鎌足]]|ふじわら(なかとみ)のかまたり}}'''の子孫である'''{{ruby|藤原|ふじわら}}氏'''です。
:[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#班田収授|班田収授法]]は、朝廷が管理する土地(公地)が不足して、奈良時代の初期にはすでに続けるのがむずかしくなっていました。奈良時代中期には、税を確保するために、[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#墾田永年私財法|墾田永年私財法]]が出されて新たに{{ruby|開墾|かいこん}}された土地は、開墾した者の土地になることになりました。
:このような開墾は、もともと豊かな貴族、大きな寺や神社(寺社)でなければできないことで、貴族や寺社は開墾を行うことで[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#班田収授|朝廷が行う田の割り当て(班田)]]にたよらず、農地(田)をもつことができるようになり、そこで、貴族や寺の召使い({{ruby|家人|けにん}})など<ref>その他、良い{{ruby|口分田|くぶんでん}}が割り当てられなかった農民なども、口分田を捨てて、家人などになることもありました。</ref>に田を耕させるようになりました。このような、農地などを'''{{ruby|荘園|しょうえん}}'''<span id="荘園"/>といいます<ref>荘園は、農地(田)だけではなく、それをたがやす農民の住まいや、周辺の山林もふくみました。</ref>。
:荘園が成立する一方、{{ruby|口分田|くぶんでん}}でわりあてる土地不足の問題は解しませんでした。また、戸籍や土地台帳の管理はむずかしく、8世紀末には、班田収授法は実施できなくなってしまいました。口分田は、そのまま、たがやしていた農民<span id="名主"/>が自分のものとして、朝廷に税をおさめるようにかわりました。同時に、役人への農地のわりあてもなされなくなり、役人は朝廷からの収入だけでは豊かな生活ができなくなりました。
:最初は、荘園に税がかけられない、寺社などが荘園を広げていきました<ref>貴族は、もともと朝廷からの報酬があるうえに、開墾した荘園は税を納めなければならなかったので、最初のうちは開墾に熱心ではありませんでした。</ref>。その後、9世紀頃になると、役人、特に国司など地方の役人などは、荘園から朝廷に税を払って、その中から役人に報酬を払うのは無駄だということで<ref>地方から、京都へ税である米などを運ぶつとめも民衆にはありました。</ref>、税として朝廷に運ばず、直接役人である貴族が受け取るということができるようになり、その考え方を有力な貴族が広げて、寺社に加えて、一部の貴族の荘園からも朝廷に税をおさめなくなりました<ref>税を納めないことを、「{{ruby|不輸|ふゆ}}」といい、そうすることができることを「不輸の{{Ruby|権|けん}}」と言います。「輸」は「はこびだす」と言う意味ですから「(税を)はこびださない」と言うことです。</ref>。
:そうすると、<u>田を持っている農民や自ら開墾した荘園を持っている地方豪族などは、自らの荘園を有力な貴族や寺社に寄付して</u><span id="寄進"/>、収穫の一部を差し出し、それよりも多い税を逃れようとします。11世紀頃には、これが進んで朝廷が税を取れる土地<ref>「荘園」に対してこれを「'''{{ruby|公領|こうりょう}}'''」といいます。</ref><span id="公領"/>と荘園はほぼ同じ規模となりました。また、税をおさめないと言うことは、朝廷の役人の立ち入りも必要ないであろうと言うことで、荘園に役人が入れなくなりました<span id="不入"/><ref>これを「{{ruby|不入|ふにゅう}}(=はいらない)」といい、そうすることができることを「不入の権」と言います。「不輸」とあわせて、「{{ruby|不輸不入|ふゆふにゅう}}の権」といい、荘園の特徴とされます。</ref>。こうして、荘園は朝廷から独立したもののようになりました。
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{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】「{{ruby|名田|みょうでん}}」と{{ruby|名字|みょうじ}}(苗字)の話'''<small>
:<span id="名田"/>上に書いたように、8世紀末には「[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#班田収授|班田収授法]]」は、実施できなくなっていました。では、その後の田んぼは誰がたがやしていったのでしょうか。
:「班田収授法(公地公民)」は、人に田をわりあて、その収穫から税をとるという仕組みでした。そのため、朝廷は、戸籍をつくって人を管理していましたが、人口の増減に追いつくことができず、うまくいかなくなりました。朝廷は税が取れないと政治ができませんので、とにかく、税を取ろうとします。ここで、[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#墾田永年私財法|墾田永年私財法]]を思い出してください。開墾した土地は、朝廷に返さなくてもよいかわりに、税を払い続けるというものでした。これと同じように、今まで割り当てていた田(口分田)も、わりあてをやめて、誰がたがやしていても、その土地からきまった税({{ruby|年貢|ねんぐ}})を取るようになりました。このような土地(田)の大きさは、[[#名主|もともと口分田がわりあてられていた、家族だけでたがやす小さなもの]]<ref>それでも、昔は一家族の人数は多かったので、2町(約2ヘクタール)程度の広さはあったでしょう。なお、現代日本の農家の平均農地面積は約1ヘクタール、専業農家で約2ヘクタールです。</ref>から、貴族や地方豪族の親族などで数多くの{{ruby|家人|けにん}}などを使った大きなものまでさまざまでした。そのように税を取りまとめる土地(田)の広がりを「{{ruby|名|な}}が『◯○』さんという人が税をはらう土地(田)」ということで、「○○の{{ruby|名|みょう}}」というようになり、のちに、「『◯○』さん」とは関係なくなって、単に「{{ruby|名|みょう}}」または「{{ruby|名田|みょうでん}}」というようになりました。「{{ruby|名|みょう}}」で、税をはらう責任者になっていたのが「{{ruby|名主|みょうしゅ}}」(または、{{ruby|名主|なぬし}})で、土地が小さければ「'''{{ruby|小名|しょうみょう}}'''」、土地が大きければ「'''{{ruby|大名|だいみょう}}'''」と呼ばれるようになりました。
:{{ruby|名田|みょうでん}}は、もともと朝廷の土地(公地)の仕組みでしたが、やがて、荘園にも、この仕組みがとりいれられます。荘園の多くは最初は、貴族や寺の{{ruby|家人|けにん}}などにより開墾されましたが、その後の耕作も彼らが引きつづいておこない、朝廷への税にかえて、荘園領主への年貢をおさめるようになっており、{{ruby|家人|けにん}}のなかから{{ruby|名主|みょうしゅ}}と同じ役割をはたすものも出てきたのです。さらに、[[#寄進|荘園が大きくなるときに、寄付をした農民や地方豪族]]が、寄付をした田を{{ruby|名田|みょうでん}}として、自分は{{ruby|名主|みょうしゅ}}となりました。
:さて、このように公領や荘園は{{ruby|名田|みょうでん}}という仕組みになったのですが、10世紀頃から、姓名とは別に、みずからの所領「{{ruby|名|みょう}}」に通称「{{ruby|字|あざな}}」をならべてよびかけることが広まっていきました。 例えば、武士の{{ruby|平良文|たいらのよしふみ}}という人は、{{ruby|相模|さがみ}}(現在の神奈川県)の{{ruby|村岡|むらおか}}というところの{{ruby|名主|みょうしゅ}}で、兄弟で5番目だったことから「{{ruby|村岡五郎|むらおかのごろう}}」と自称しました。このように、おさめた土地から、つけられた名前を「'''{{ruby|名字|みょうじ}}'''(苗字)」といい、「{{ruby|姓|せい}}」とともに「{{ruby|名|みょう}}」が一族の集まりを意味するようになります。これが、今の「'''みょうじ'''」の元になっています。今は姓と「みょうじ」は同じものですが、昔は別のものでした。</small>
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=== 摂関政治 ===