「小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代」の版間の差分

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:また、言い伝えや和歌のいわれなどを説明した{{Ruby|詞書|ことばがき}}などから物語が発展しました。代表的作品に'''{{Ruby|竹取物語|たけとりものがたり}}'''があります。そのほか、役人で歌人でもある{{Ruby|紀貫之|きのつらゆき}}は、国司をつとめた{{Ruby|土佐|とさ}}(高知県)から都へ帰る時に見聞きし思ったことをひらがなの日記、'''{{Ruby|土佐日記|とさにっき}}'''としてのこしますが、これが、日記文学や{{ruby|随筆|ずいひつ}}のもととなります。
[[画像:Genji emaki azumaya.jpg|thumb|250px|right|大和絵『源氏物語絵巻』 <br>源氏物語は人気作となり、絵巻物まで作られるほどになりました。この絵は、源氏物語の作品のなかの場面をえがいたものです。]]
;宮中文学
:摂関政治で説明したとおり、藤原氏は宮中に娘をおくって、天皇の{{ruby|妃|きさき}}にしようとしました。藤原氏と言っても、同じ世代の兄弟おのおので、娘をおくりだしたりしています。天皇はその中から{{ruby|妃|きさき}}を選ぶのですが、娘の親は、天皇が気にいるように、教養をつけさせるため、娘に文学の才能のある{{ruby|女官|にょかん}}をつけました。この女官を{{ruby|女房|にょうぼう}}と言い、女房の作品を女房文学と言います。
:'''{{Ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#紫式部(むらさきしきぶ)|紫式部]]|むらさきしきぶ}}'''は、道長の娘で一条天皇の{{ruby|皇后|こうごう}}<ref name="皇后">天皇の{{ruby|妃|きさき}}の中でもっとも位の高い者。元は、「中宮」と「皇后」は同じ意味でしたが、一条天皇の中宮は定子であったところ、道長が彰子を皇后とし、定子と同じ立場にしました。</ref>・{{ruby|彰子|しょうし}}<ref name="名前">当時は「{{ruby|彰子|あきこ}}」「{{ruby|定子|さだこ}}」と呼ばれていたのではないかと言われていますが、慣習としてこう読みます。</ref>の女官で、『'''{{ruby|源氏|げんじ}}物語'''』を書きました。これは、貴族の「{{ruby|光源氏|ひかるげんじ}}」という人物を主人公にした貴族の恋愛など宮中での生活の様子を書いており、後世の日本文学に大きな影響を与えます。
:また、'''{{Ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#清少納言(せいしょうなごん)|清少納言]]|せいしょうなごん}}'''は、道長のライバルで兄の藤原{{ruby|道隆|みちたか}}の娘で一条天皇の{{ruby|中宮|ちゅうぐう}}<ref name="皇后"/>・{{ruby|定子|ていし}}<ref name="名前"/>の女官で、日々思うことを書きしるした{{ruby|随筆|ずいひつ}}『'''{{ruby|枕草子|まくらのそうし}}'''』を残しています。これも後世の日本文学に大きな影響を与えています。
;説話文学
:宮中以外の庶民においては、お寺などで、多くの人は文字が読めず、また、お経などはそのままでは大変むずかしいので、布教のため仏教の教えを物語にしたものをかたり伝えていました。これを'''{{ruby|説話|せつわ}}'''といいます。平安時代の終わりころには、これらを文字にしてまとめた『'''{{ruby|今昔物語集|こんじゃくものがたりしゅう}}'''』などの{{ruby|説話集|せつわしゅう}}ができました。
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=== その他の平安時代の文化 ===
;宮中の衣服