「小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代」の版間の差分

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:'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#足利義満(あしかがよしみつ)|義満]]|よしみつ}}'''が将軍のころ、南朝が降伏し、南北朝時代が終わりました。
:室町幕府は仕組みの多くを鎌倉幕府からひきつぎましたが、いくつかの違いがあります。
:まず、将軍を補佐する役職に{{ruby|管領|かんれい}}<span id="管領"/>をおきましたが、鎌倉幕府の{{ruby|執権|しっけん}}のように一つの家(北条氏)に独占させず、足利一族の三つの家(斯波氏・細川氏・畠山氏)で分担しました。幕府でもっとも重要な役所は{{ruby|侍所|さむらいどころ}}で、戦の時の武士の指揮と京都市中の警察・徴税などをつかさどるものですが、その長官である{{ruby|所司|しょし}}も特に有力な四つの家(赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏)から、交代で任命されました。
:また、鎌倉に幕府と同じ仕組みをもった「鎌倉府<span id="鎌倉府"/>」をおいて、尊氏の四男・{{ruby|基氏|もとうじ}}の子孫が将軍の代理「{{ruby|鎌倉公方|かまくらくぼう}}」として、関東の政治を行いました。鎌倉公方には、将軍とおなじように、補佐としてついて{{ruby|関東管領|かんとうかんれい}}がつき、上杉氏がこれをつとめました。そのほか、九州や東北といった京都から遠い地方には、{{ruby|探題|たんだい}}がおかれました。
:各国には、鎌倉幕府と同じように守護と地頭がおかれましたが、守護の役割りがつよめられ、地頭はその指示に従う立場になりました。また、守護自身は、幕府のある京都にいることが多かったため、国元には、家臣を'''{{ruby|守護代|しゅごだい}}'''<span id="守護代"/>として、自分の代理をつとめさせました。
:鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争いを通じて、守護や地頭のほか各地の武士は、朝廷領や荘園の管理の立場から直接に支配するようになってきました。このようにして大きな領地を得ることになった守護を'''{{ruby|守護大名|しゅごだいみょう}}'''<span id="守護大名"/>と言います。また、各地で領主となった地頭などの武士を'''{{ruby|国人|こくじん}}'''<span id="国人"/>と言います。
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