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(相違点なし)
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2021年12月22日 (水) 19:27時点における版
★時代区分:江戸時代初期
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江戸幕府の始まり
関ヶ原の戦い
- 1598年秀吉が死んだ時、後継の
秀頼 はまだ5歳でした。秀吉は、秀頼が成長するまで徳川家康 ・上杉景勝 他5人の有力な大名(五大老 [1])と秀吉が信頼する石田三成 や浅野長政 他5人の家臣(五奉行 [2])の10人で相談して政治を行うよう言い残しました。しかし、秀吉が死ぬと家康は他の大名との関係を深めるなどの動きを見せ、三成は家康が天下をねらっているのではないかとうたがいを持つようになりました。他方で、秀吉・秀頼の家臣の中で、石田三成を中心とする行政で秀吉をささえたグループと浅野長政や加藤清正 ・福島正則 といった戦 で手柄 を立ててきたグループの間に対立が生じてもいました。
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関ヶ原 の戦い- 1600年、五大老五奉行の
仲違 いが深まり、家康は会津 の上杉景勝を攻める兵を挙げ東へ向かいます。 - 三成は、家康に反対する大名たちに呼びかけ、家康を攻める兵をあげやはり東へ向かいました。これを知った家康は軍を西へ反転して、これをむかえうとうとしました。そして、
関ヶ原 (今の岐阜県)で、家康が率いる軍(東軍)と、三成が率いる軍(西軍)がぶつかりました。これを 関ヶ原の戦い といいます。これは、両軍合わせて約20万人と日本史上最大の合戦となりました。結果は、西軍の中での裏切りなどもあって東軍の勝利となりました。 - 戦後、三成らは処刑され領土は没収されました。毛利氏など西軍についたもまた多くの領土を没収されました。豊臣氏も多くの領土を没収され、一地方の大名に過ぎないものとなって、家康の天下となりました。
江戸幕府の誕生
- 1603年、
朝廷 から徳川家康 は征夷大将軍 に任命されました。 - 家康は
江戸 (現在の東京)に幕府 を開きました。これが江戸幕府 であり、この時から江戸時代が始まりました。
- 関ヶ原の戦いの後、家康は西軍の大名の領地と豊臣氏の領土を取り上げ、東軍の大名に分け与えました。この時、大名を家康の子孫による親藩、関ヶ原の戦い前から家来である
譜代 大名、関ヶ原の戦い後に従った外様 大名にわけてとりあつかいました。①親藩は、将軍家の血筋が絶えた場合などに、将軍を出す役割を担った御三家・御三卿を含み、家格・官位などでは優遇されましたが、幕政に参加することはまれでした、②譜代大名は、比較的小さな石高の領土を認められ領地替えもよくありましたが、江戸や京大阪からは近くに位置したものでした。大老、老中、若年寄といった幕閣には譜代大名がつきました。③外様大名は、比較的大きな石高の領土を認められ、幕末まで領地替えはほとんどありませんでしたが、江戸や京大阪からは遠いところにありました。また、幕政に参加することはほとんどありませんでした。なお、江戸時代の大名とその家来を合わせた集団を、「藩 」と言っています。幕府は強力な力を持っていましたが、藩の中の政治に口を出すことはありませんでした。
武士の政治の安定
江戸幕府の仕組み
- 第3代将軍徳川家光は、大名は、妻子(正妻と後継となる子)を江戸に置き、領土との間を1年おきに行き来すること(参勤交代)を定めました。また、将軍の命令で、徳川氏が有する城や河川の改修などを務めなければならないこともありました。こうして、徳川将軍は大名が、戦国時代のように勝手に争うことができないようにし、安定した世の中を作り上げました。
- 徳川幕府には、重要なことを決める大老、老中、若年寄の他、大名の監視を行う大目付、寺社を管理する寺社奉行、幕府の出納を管理する勘定奉行、江戸の行政や裁判を行う江戸町奉行などの役職があり、大名の他、将軍の直接の家臣である旗本がその任務につきました。
武士と庶民
- 秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「士農工商」という身分制を確立しました。また、人の移動は厳しく制限され、各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。
島原の乱と鎖国
- キリスト教は秀吉の時代に禁じられましたが、江戸幕府においても禁じられました。一方で、ポルトガルなどとの貿易は港を限定しながらも続いており、そこで宣教師との行き来があったとされます。そんな中、九州の天草・島原で大規模なキリスト教徒による反乱(島原の乱)が起きました。これがきっかけとなって、幕府は、島原の乱の翌年に、貿易の相手を、キリスト教の布教には熱心でないオランダだけに限って、さらに、長崎の出島だけでこれを認めることになりました。これを、
鎖国 と言います。
脚注
以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。