「小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
M Tomzo がページ「小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代」を「小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代」に、リダイレクトを残して移動しました: もどす |
最終節を次章に繰り越し |
||
4 行
|<!--戦国時代から織豊時代--><!--(カ) キリスト教の伝来,織田・豊臣の天下統一を手掛かりに,戦国の世が統一されたことを理解すること。-->
★時代区分:戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代</br>
★取り扱う年代:1467年(応仁の乱の開始)から
;戦国時代
: 義政のころになると、守護大名は幕府にたよらず領地を強力におさめるようになり、そのため、各地では大名同士や国人同士での勢力争いも数多く見られるようになりました。特に、義政の後継者争いをきっかけにした'''応仁の乱'''以後は、幕府は各地の争いを止める力を失って大名間で競って領土を争うようになります。この時代を「'''戦国時代'''」と言います。
14 行
: 秀吉が、天下を統一したころには、キリスト教の信者('''キリシタン''')はかなり増えており、大名の中にも信者がいました(キリシタン大名)。しかし、各地で寺社との対立があったり、スペインなどの侵略のうわさなどもあり、宣教師(バテレン)を国外に追放し、キリスト教の布教を禁止しました。
: 晩年、秀吉は、大陸進出を望んで、全国の大名に命じて朝鮮に兵を進めました('''朝鮮出兵''': 文禄・慶長の役)。しかし、朝鮮の強い抵抗と、明の援軍にあい、侵攻が進まないなか、秀吉が死去し朝鮮出兵は撤退しました。
|}
=== 戦国時代 ===
43 ⟶ 42行目:
:*:{{ruby|越後|えちご}}国(現在の新潟県)の戦国大名です。越後国の守護は上杉氏がつとめていて、守護代を{{ruby|長尾|ながお}}氏がつとめていました。謙信は、もともと長尾氏の生まれですが、力が衰えた上杉氏の養子となり、関東管領の地位もつぎました。謙信は、北関東をめぐって北条氏と戦い、{{ruby|信濃|しなの}}国(信州、現在の長野県)をめぐって{{ruby|武田信玄|たけだしんげん}}と戦いました。
:*{{ruby|武田信玄|たけだしんげん}}<span id="武田信玄"/>
:*:{{ruby|甲斐|かい}}国(現在の山梨県)の戦国大名です。{{ruby|武田|たけだ}}氏は、もともと守護大名です。信玄は、馬を使った{{ruby|戦|いくさ}}がたくみで、{{ruby|信濃|しなの}}国をめぐって上杉謙信と戦い、信濃を領地にし、{{ruby|今川|いまがわ}}氏が衰えたのち、駿河に南下し、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|徳川家康]]とたたかい、家康を敗退させます<span id="三方原の戦い"/>。そのまま、西に進み、[[#織田信長|織田信長]]とたたかおうとしたところで病で亡くなりました。
:*{{ruby|今川義元|いまがわよしもと}}<span id="いまがわよしもと"/>
:*:{{ruby|駿河|するが}}国と{{ruby|遠江|とおとおみ}}国(現在の静岡県中部から西部)の戦国大名です。{{ruby|今川|いまがわ}}氏は、足利家の一族の有力な守護大名です。義元は、隣接する北条氏や信玄ととも争いながら、ひけをとらない強力な戦国大名で、西に隣接する{{ruby|三河|みかわ}}国の大名{{ruby|松平|まつだいら}}氏をしたがえており、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|徳川家康]]も幼いころ人質にされていました。1560年、大軍で西に進み終わりを攻撃しようとしたところで、[[#織田信長|織田信長]]の奇襲にあってうたれました。
:*{{ruby|毛利元就|もうりもとなり}}<span id="毛利元就"/>
:*:毛利元就はもともと{{ruby|安芸|あき}}国(現在の広島県)の国人領主でしたが、安芸の守護武田氏をほろぼし戦国大名となり、ついで、{{ruby|周防|すおう}}、{{ruby|長門|ながと}}国(現在の山口県)など中国地方西部を領地とした守護大名である{{ruby|大内|おおうち}}氏の内乱の機会に大内氏の領地をえて、中国地方の東部を領地とした戦国大名である[[#尼子氏|{{ruby|尼子|あまこ}}氏]]をほろぼして中国地方全体をおさめる戦国大名になりました。
123 ⟶ 122行目:
:京都から近畿地方一帯を、自分の勢力におさめた信長は、当時、日本最大の貿易港であった{{ruby|堺|さかい}}を直接おさめ、堺の商人たちに自分たちの政治をまかせました。そうすることで、商業をさかんにし、'''南蛮貿易'''をはじめとした取引の利益を税としてえようとしました。
:また、このころ、キリスト教の{{ruby|宣教師|せんきょうし}}と初めて出会い、布教を許可しました。信長本人はキリスト教の信者ではなく、信長のねらいは、南蛮貿易のほか、宣教師のもたらす情報や、さらには当時に信長と{{ruby|敵対|てきたい}}していた仏教勢力への{{ruby|対策|たいさく}}などと言われています。
:京都近辺の訴訟や各国の争い事の調停などは将軍義昭の幕府に任せて、自分は領地の中の政治や領地の拡大につとめていましたが、幕府にはもうその力はなく、将軍にかわって信長が取り扱わなければならない例が多く出てきました。将軍義昭やその側近はそれに不満を持つようになりました。そのため、信長を囲む勢力と連絡をとって攻撃させたとも言われています。信長を囲む勢力としては、阿波の[[#三好氏|三好氏]]、北陸の{{ruby|朝倉|あさくら}}氏、{{ruby|摂津|せっつ}}の石山本願寺<ref>のちに大阪城が建てられる場所です。</ref>が指揮をとる各地の[[#一向一揆|一向一揆]]がありました。信長は、家臣を各々の方面に当てて戦いました。また、1571年には、 {{ruby|延暦寺|えんりゃくじ}}が敵対する朝倉氏の兵をかばったとして焼き{{ruby|討|う}}ちにしました<ref>当時の延暦寺は僧だけではなく、寺を守る武士やその家族も含めた一つの街になっていました。</ref>。翌1572年には、これをとがめた[[#武田信玄|武田信玄]]が西へ向かい、同盟者の[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}]]と戦い、'''[[#三方原の戦い|{{ruby|三方原|みかたがはら}}の戦い]]'''で信長と家康の同盟軍をうちやぶりますが、信玄がその途中で病死したため、武田軍は甲斐へ戻ります。
:1573年、信長は将軍義昭を追放し、室町幕府はほろび、室町時代は終わります。
:翌年、北陸地方の有力な大名であった{{ruby|朝倉|あさくら}}氏とその協力者であった近江の{{ruby|浅井|あざい}}氏をほろぼし、1575年の[[#長篠の戦い|長篠の戦い]]では、大量の火縄銃で、{{ruby|武田勝頼|たけだかつより}}がひきいる日本最強とうわさされた騎馬軍団をしりぞけました。
149 ⟶ 148行目:
:*中国地方の毛利氏とは、毛利氏がその当時もっていた中国地方9カ国の領地をそのまま認めることで同盟を結びました。
:*1583年、{{ruby|越後|とさ}}の{{ruby|上杉景勝|うえすぎかげかつ}}([[#上杉謙信|謙信]]の後継者)とも同盟を結びました。
:*1584年、秀吉の後継に不満を持った信長の次男織田{{ruby|信雄|のぶかつ}}が[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}]]を味方にして戦いますが、翌年には家康は秀吉に従います。
:*四国は長宗我部氏がほぼまとめていましたが、1585年、攻め入って、{{ruby|土佐|とさ}}(現在のとさ)一国のみを残し、その他を取り上げました。
:*1585年秀吉は、[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#摂関政治|関白]]に、翌年[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#太政官|太政大臣]]となり、天皇から「豊臣」の姓<ref name="秀吉の名"/>をあたえられました。
173 ⟶ 172行目:
:*'''キリスト教の禁止'''
:*: 秀吉が、天下を統一したころには、キリスト教の信者('''キリシタン''')はかなり増えており、大名の中にも信者がいました(キリシタン大名)。しかし、各地で寺社との対立があったり、スペイン<ref name="スペイン"/>などの侵略のうわさなどもあり、宣教師(バテレン)を国外に追放し、キリスト教の布教を禁止しました。ただし、南蛮貿易は、そのまま継続しました。
{{-}}
== 脚注 ==
|