「小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代」の版間の差分

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|<!--戦国時代から織豊時代--><!--(カ) キリスト教の伝来,織田・豊臣の天下統一を手掛かりに,戦国の世が統一されたことを理解すること。-->
★時代区分:戦国時代(室町時代後期)、安土桃山時代</br>
★取り扱う年代:1467年(応仁の乱の開始)から16031600年(江戸幕府関ヶ原成立戦い)まで
;戦国時代
: 義政のころになると、守護大名は幕府にたよらず領地を強力におさめるようになり、そのため、各地では大名同士や国人同士での勢力争いも数多く見られるようになりました。特に、義政の後継者争いをきっかけにした'''応仁の乱'''以後は、幕府は各地の争いを止める力を失って大名間で競って領土を争うようになります。この時代を「'''戦国時代'''」と言います。
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: 秀吉が、天下を統一したころには、キリスト教の信者('''キリシタン''')はかなり増えており、大名の中にも信者がいました(キリシタン大名)。しかし、各地で寺社との対立があったり、スペインなどの侵略のうわさなどもあり、宣教師(バテレン)を国外に追放し、キリスト教の布教を禁止しました。
: 晩年、秀吉は、大陸進出を望んで、全国の大名に命じて朝鮮に兵を進めました('''朝鮮出兵''': 文禄・慶長の役)。しかし、朝鮮の強い抵抗と、明の援軍にあい、侵攻が進まないなか、秀吉が死去し朝鮮出兵は撤退しました。
: 秀吉死後、最も強力な大名'''徳川家康'''は、敵対する豊臣家家臣石田三成らと、東軍(家康側)と西軍(三成側)に分かれ関ヶ原で戦い('''関ヶ原の戦い''')、これに勝利します。政権は豊臣氏から徳川氏に移ります。
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=== 戦国時代 ===
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:*:{{ruby|越後|えちご}}国(現在の新潟県)の戦国大名です。越後国の守護は上杉氏がつとめていて、守護代を{{ruby|長尾|ながお}}氏がつとめていました。謙信は、もともと長尾氏の生まれですが、力が衰えた上杉氏の養子となり、関東管領の地位もつぎました。謙信は、北関東をめぐって北条氏と戦い、{{ruby|信濃|しなの}}国(信州、現在の長野県)をめぐって{{ruby|武田信玄|たけだしんげん}}と戦いました。
:*{{ruby|武田信玄|たけだしんげん}}<span id="武田信玄"/>
:*:{{ruby|甲斐|かい}}国(現在の山梨県)の戦国大名です。{{ruby|武田|たけだ}}氏は、もともと守護大名です。信玄は、馬を使った{{ruby|戦|いくさ}}がたくみで、{{ruby|信濃|しなの}}国をめぐって上杉謙信と戦い、信濃を領地にし、{{ruby|今川|いまがわ}}氏が衰えたのち、駿河に南下し、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|徳川家康]]とたたかい、家康を敗退させます<span id="三方原の戦い"/>。そのまま、西に進み、[[#織田信長|織田信長]]とたたかおうとしたところで病で亡くなりました。
:*{{ruby|今川義元|いまがわよしもと}}<span id="いまがわよしもと"/>
:*:{{ruby|駿河|するが}}国と{{ruby|遠江|とおとおみ}}国(現在の静岡県中部から西部)の戦国大名です。{{ruby|今川|いまがわ}}氏は、足利家の一族の有力な守護大名です。義元は、隣接する北条氏や信玄ととも争いながら、ひけをとらない強力な戦国大名で、西に隣接する{{ruby|三河|みかわ}}国の大名{{ruby|松平|まつだいら}}氏をしたがえており、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|徳川家康]]も幼いころ人質にされていました。1560年、大軍で西に進み終わりを攻撃しようとしたところで、[[#織田信長|織田信長]]の奇襲にあってうたれました。
:*{{ruby|毛利元就|もうりもとなり}}<span id="毛利元就"/>
:*:毛利元就はもともと{{ruby|安芸|あき}}国(現在の広島県)の国人領主でしたが、安芸の守護武田氏をほろぼし戦国大名となり、ついで、{{ruby|周防|すおう}}、{{ruby|長門|ながと}}国(現在の山口県)など中国地方西部を領地とした守護大名である{{ruby|大内|おおうち}}氏の内乱の機会に大内氏の領地をえて、中国地方の東部を領地とした戦国大名である[[#尼子氏|{{ruby|尼子|あまこ}}氏]]をほろぼして中国地方全体をおさめる戦国大名になりました。
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:京都から近畿地方一帯を、自分の勢力におさめた信長は、当時、日本最大の貿易港であった{{ruby|堺|さかい}}を直接おさめ、堺の商人たちに自分たちの政治をまかせました。そうすることで、商業をさかんにし、'''南蛮貿易'''をはじめとした取引の利益を税としてえようとしました。
:また、このころ、キリスト教の{{ruby|宣教師|せんきょうし}}と初めて出会い、布教を許可しました。信長本人はキリスト教の信者ではなく、信長のねらいは、南蛮貿易のほか、宣教師のもたらす情報や、さらには当時に信長と{{ruby|敵対|てきたい}}していた仏教勢力への{{ruby|対策|たいさく}}などと言われています。
:京都近辺の訴訟や各国の争い事の調停などは将軍義昭の幕府に任せて、自分は領地の中の政治や領地の拡大につとめていましたが、幕府にはもうその力はなく、将軍にかわって信長が取り扱わなければならない例が多く出てきました。将軍義昭やその側近はそれに不満を持つようになりました。そのため、信長を囲む勢力と連絡をとって攻撃させたとも言われています。信長を囲む勢力としては、阿波の[[#三好氏|三好氏]]、北陸の{{ruby|朝倉|あさくら}}氏、{{ruby|摂津|せっつ}}の石山本願寺<ref>のちに大阪城が建てられる場所です。</ref>が指揮をとる各地の[[#一向一揆|一向一揆]]がありました。信長は、家臣を各々の方面に当てて戦いました。また、1571年には、 {{ruby|延暦寺|えんりゃくじ}}が敵対する朝倉氏の兵をかばったとして焼き{{ruby|討|う}}ちにしました<ref>当時の延暦寺は僧だけではなく、寺を守る武士やその家族も含めた一つの街になっていました。</ref>。翌1572年には、これをとがめた[[#武田信玄|武田信玄]]が西へ向かい、同盟者の[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}]]と戦い、'''[[#三方原の戦い|{{ruby|三方原|みかたがはら}}の戦い]]'''で信長と家康の同盟軍をうちやぶりますが、信玄がその途中で病死したため、武田軍は甲斐へ戻ります。
:1573年、信長は将軍義昭を追放し、室町幕府はほろび、室町時代は終わります。
:翌年、北陸地方の有力な大名であった{{ruby|朝倉|あさくら}}氏とその協力者であった近江の{{ruby|浅井|あざい}}氏をほろぼし、1575年の[[#長篠の戦い|長篠の戦い]]では、大量の火縄銃で、{{ruby|武田勝頼|たけだかつより}}がひきいる日本最強とうわさされた騎馬軍団をしりぞけました。
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:*中国地方の毛利氏とは、毛利氏がその当時もっていた中国地方9カ国の領地をそのまま認めることで同盟を結びました。
:*1583年、{{ruby|越後|とさ}}の{{ruby|上杉景勝|うえすぎかげかつ}}([[#上杉謙信|謙信]]の後継者)とも同盟を結びました。
:*1584年、秀吉の後継に不満を持った信長の次男織田{{ruby|信雄|のぶかつ}}が[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}]]を味方にして戦いますが、翌年には家康は秀吉に従います。
:*四国は長宗我部氏がほぼまとめていましたが、1585年、攻め入って、{{ruby|土佐|とさ}}(現在のとさ)一国のみを残し、その他を取り上げました。
:*1585年秀吉は、[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#摂関政治|関白]]に、翌年[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#太政官|太政大臣]]となり、天皇から「豊臣」の姓<ref name="秀吉の名"/>をあたえられました。
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:*'''キリスト教の禁止'''
:*: 秀吉が、天下を統一したころには、キリスト教の信者('''キリシタン''')はかなり増えており、大名の中にも信者がいました(キリシタン大名)。しかし、各地で寺社との対立があったり、スペイン<ref name="スペイン"/>などの侵略のうわさなどもあり、宣教師(バテレン)を国外に追放し、キリスト教の布教を禁止しました。ただし、南蛮貿易は、そのまま継続しました。
 
==== 徳川家康の江戸幕府 ====
:1598年秀吉が死んだ時、後継の{{Ruby|秀頼|ひでより}}はまだ5歳でした。秀吉は、秀頼が成長するまで'''{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}'''・{{ruby|上杉景勝|うえすぎがげかつ}}他5人の有力な大名('''{{ruby|五大老|ごたいろう}}'''<ref>家康・景雄の他は{{ruby|前田利家|まえだとしいえ}}・{{ruby|毛利輝元|もうりてるもと}}・{{ruby|宇喜多秀家|うきたひでいえ}}。</ref>)と秀吉が信頼する'''{{ruby|石田三成|いしだみつなり}}'''や{{ruby|浅野長政|あさのながまさ}}他5人の家臣('''{{ruby|五奉行|ごぶぎょう}}'''<ref>三成・長政の他は{{ruby|前田玄以|まえだげんい}}・{{ruby|増田長盛|ましたながもり}}・{{ruby|長束正家|なつかまさいえ}}。</ref>)の10人で相談して政治を行うよう言い残しました。しかし、秀吉が死ぬと家康は他の大名との関係を深めるなどの動きを見せ、三成は家康が天下をねらっているのではないかとうたがいを持つようになりました。他方で、秀吉・秀頼の家臣の中で、石田三成を中心とする行政で秀吉をささえたグループと浅野長政や{{ruby|加藤清正|かとうきよまさ}}・{{ruby|福島正則|ふくしままさのり}}といった{{ruby|戦|いくさ}}で{{ruby|手柄|てがら}}を立ててきたグループの間に対立が生じてもいました。
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| class="wikitable" style="width:100%"
|[[File:Tokugawa_Ieyasu2.JPG|thumb|200px|徳川家康]]
;{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}のこれまでの歩み<span id="徳川家康"/>
:徳川家康は、{{Ruby|三河|みかわ}}(現在の愛知県東部)の大名{{Ruby|松平|まつだいら}}氏に生まれます。松平氏は三河の国人出身の大名でしたが、隣接する{{ruby|今川|いまがわ}}氏や織田氏に比べると弱小な大名でした。家康は家を継ぐ前、{{Ruby|松平元康|まつだいらもとやす}}と言って、今川氏に人質に出されていたことがあります。
:1560年[[#桶狭間の戦い|{{ruby|桶狭間|おけはざま}}の戦い]]で[[#今川義元|今川義元]]が討ち死にし、今川氏が弱くなると、信長と同盟し三河をとりもどします。そして、名を{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}とかえ、{{Ruby|遠江|とおとおみ}}をせめとります。その後、信長の同盟国として武田氏や北条氏と隣接する信長の勢力の東南部を守り続けます。
:1572年の'''[[#三方原の戦い|{{ruby|三方原|みかたがはら}}の戦い]]'''では大敗し、命の危険もありましたが、[[#武田信玄|武田信玄]]が病死し、兵は甲斐へもどったため一命をとりとめました。
:逆に、1575年の[[#長篠の戦い|長篠の戦い]]では、信長との連合軍で、{{ruby|武田勝頼|たけだかつより}}に大勝し{{Ruby|駿河|するが}}をえ、1582年武田氏をほろぼして{{Ruby|甲斐|かい}}と{{Ruby|信濃|しなの}}の一部をえました。
:秀吉には、後継者争いで一時抵抗し、秀吉の軍をくだすなどしたのですが、和解し、その後はしたがいます。
:1590年、秀吉の[[#小田原攻め|小田原攻め]]に協力し北条氏を攻め滅ぼしますが、秀吉の命令によって、領地を北条氏のおさめていた関東に移され、{{Ruby|江戸|えど}}城を{{Ruby|拠城|きょじょう}}としました。
:秀吉の生前は、秀吉配下では最大の大名となっていました。
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;{{Ruby|関ヶ原|せきがはら}}の戦い
:[[File:Sekigaharascreen.jpg|thumb|400px|関ヶ原の戦い<br>絵の右側にいるのが徳川軍。絵の左側にいるのが豊臣軍。]]
:1600年、五大老五奉行の{{ruby|仲違|なかたが}}いが深まり、家康は{{ruby|会津|あいづ}}の上杉景勝を攻める兵を挙げ東へ向かいます。
:三成は、家康に反対する大名たちに呼びかけ、家康を攻める兵をあげやはり東へ向かいました。これを知った家康は軍を西へ反転して、これをむかえうとうとしました。そして、{{Ruby|関ヶ原|せきがはら}}(今の岐阜県)で、家康が率いる軍(東軍)と、三成が率いる軍(西軍)がぶつかりました。これを '''関ヶ原の戦い''' といいます。これは、両軍合わせて約20万人と日本史上最大の合戦となりました。結果は、西軍の中での裏切りなどもあって東軍の勝利となりました。
:戦後、三成らは処刑され領土は没収されました。毛利氏など西軍についたもまた多くの領土を没収されました。豊臣氏も多くの領土を没収され、一地方の大名に過ぎないものとなって、家康の天下となりました。
 
;{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}
:1603年、{{Ruby|朝廷|ちょうてい}}から{{Ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}は [[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#将軍|{{Ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}}]]に任命されました。
:家康は{{Ruby|江戸|えど}}(現在の東京)に'''{{Ruby|幕府|ばくふ}}'''を開きました。これが'''江戸幕府'''であり、この時から'''江戸時代'''が始まりました。
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== 脚注 ==