「小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
149 行
:*1583年、{{ruby|越後|とさ}}の{{ruby|上杉景勝|うえすぎかげかつ}}([[#上杉謙信|謙信]]の後継者)とも同盟を結びました。
:*1584年、秀吉の後継に不満を持った信長の次男織田{{ruby|信雄|のぶかつ}}が[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}]]を味方にして戦いますが、翌年には家康は秀吉に従います。
:*四国は長宗我部氏がほぼまとめていましたが、1585年、攻め入って、{{ruby|土佐|とさ}}(現在のとさ高知県)一国のみを残し、その他を取り上げました。
:*1585年秀吉は、[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#摂関政治|関白]]に、翌年[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#太政官|太政大臣]]となり、天皇から「豊臣」の姓<ref name="秀吉の名"/>をあたえられました。
:*1587年、その大部分を{{ruby|島津|しまづ}}氏が統一していた九州に入り、島津氏には{{ruby|薩摩|さつま}}、{{ruby|大隈|おおすみ}}(現在の鹿児島県)と{{ruby|日向|ひゅうが}}(現在の宮崎県)の一部のみを残し、九州を平定しました。
:*1590年、関東を支配していた{{ruby|北条|ほうじょう}}氏の{{ruby|小田原|おだわら}}城(現在の神奈川県小田原市)をせめ、これをほろぼします<span id="小田原攻め"/>。この時、東北を広く支配していた{{ruby|伊達政宗|だてまさむね}}は小田原まで来て、秀吉にしたがいました。こうして、秀吉に対抗する戦国大名はいなくなり、天下は統一され、戦国時代が終わりました。
:1591年秀吉は関白をやめ甥の{{ruby|秀次|ひでつぐ}}にゆずりました。それ以降、秀吉は関白をやめた人をさす「{{Ruby|太閤|たいこう}}」と呼ばれます。そして、今では「太閤」といえば、普通は豊臣秀吉のことを指すようになりました。また、1594年秀吉は京都伏見に{{ruby|桃山|ももやま}}城(伏見城)を作り、各国の大名を集め、そこで政治を行いました。
:1592年、秀吉は、大陸進出を望んで、全国の大名に命じて'''朝鮮'''に兵を進めました。翌年、'''[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#明|{{ruby|明|みん}}]]'''が援軍を入れたため、いったん、兵を引き上げ、明と交渉を続けましたがまとまらず、1597年ふたたび、朝鮮に兵を進めました。これを、'''{{ruby|朝鮮出兵|ちょうせんしゅっぺい}}'''または'''{{ruby|文禄|ぶんろく}}・{{ruby|慶長|けいちょう}}の{{ruby|役|えき}}'''<ref>1592年が文禄元年、1597年が慶長2年となるからこの名がついています。「{{ruby|役|えき}}」とは、「戦争」の意味です。</ref>といいます。朝鮮出兵は朝鮮の強い抵抗と、明の援軍にあい、侵攻が進まないなか、1598年秀吉が死去し朝鮮出兵は撤退しました。