「小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代」の版間の差分

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:また、これらの船を使って、日本人の中にも東南アジアの各地にうつり住む人々も出てきて、東南アジアには'''{{ruby|日本人町|にほんじんまち}}'''もあちこちにできました。
[[File:Franciscus de Xabier.jpg|thumb|200px|フランシスコ・ザビエル]]
:1549年、スペイン人の{{ruby|宣教師|せんきょうし}}'''フランシスコ・ザビエル'''が来日し、'''キリスト教'''を伝えました。キリスト教は、{{ruby|聖書|せいしょ}}にもとづいた大変わかりやすい教えで、また、当時の仏教の寺の多くが地主や大名のように振る舞っていたことへの反発、さらに、貿易の目的から保護をする大名などもいて、多くの信者('''キリシタン''')をえました。戦国大名自身がキリシタンとなった者('''キリシタン大名''')もいました。
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| class="wikitable" style="width:100%"
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:とりあげた刀は、大仏をつくるためのくぎなどにするから、百姓は仏のめぐみで、この世だけでなく、あの世でも救われるだろう。
|}</div>
:*'''キリスト教の禁止'''<span id="バテレン追放令">
:*: 秀吉が、天下を統一したころには、キリスト教の信者('''キリシタン''')はかなり増えており、大名の中にも信者がいました('''キリシタン大名''')。しかし、各地で寺社との対立があったり、スペイン<ref name="スペイン"/>などの侵略のうわさなどもあり、1587年、宣教師('''バテレン''')を国外に追放し、キリスト教の布教を禁止しました('''バテレン追放令''' 禁教令)ただしこの時は南蛮貿易個人として信じること許されたのですがキリシタン大名まま継中には信仰をやめる者や信仰をける代わりに大名をやめる者もありました。
:*:秀吉は、南蛮貿易を、そのまま継続したため、キリスト教の禁止はあまり徹底されませんでした。ただ、例外として、1597年京都で活動していたキリスト教徒たちを捕らえて、はじめてキリスト教を信じたということで20人日本人、4人のスペイン人宣教師、それぞれ1名のメキシコ人、ポルトガル人宣教師合計26名が処刑されました<ref>これは、古くから布教をしていたキリスト教のグループである'''イエズス会'''(ザビエルもイエズス会の一員です)は、秀吉の意を受けて目立たないように活動を続けていたのですが、新たに布教を始めた'''フランシスコ会'''というグループが禁教令を無視したふるまいをしたためにみせしめに行ったものであるとされています</ref>。この人たちは、「日本二十六{{ruby|聖人|せいじん}}」と呼ばれています。
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