「小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代」の版間の差分

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:戦国時代にあっては、世襲の守護大名に対して、'''[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#守護代|守護代]]'''など実力のある家臣が、その地の'''[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#国人|国人]]'''領主らをしたがえて、大名の地位を乗っ取ることがしばしば見られました。これを、'''{{ruby|下克上|げこくじょう}}'''といいます。また、家系は同じであっても、国人領主となっていた分家が本家を乗っ取ることも少なくありませんでした。このように実力で大名となり、周囲の大名と争った大名を'''戦国大名'''と言います。
:応仁の乱をひきいた、山名氏は{{ruby|京極|きょうごく}}氏が守護であった{{ruby|出雲|いずも}}の守護代{{ruby|尼子|あまこ}}氏<span id="尼子氏"/>にせめとられ、管領の細川氏は領土の一つであった{{ruby|阿波|あわ}}の守護代{{ruby|三好|みよし}}氏<span id="三好氏"/>に乗っ取られます。三好氏の{{ruby|三好長慶|みよしながよし}}は、畿内・近畿・四国東部を領地とし、幕府をあやつるようになります。また、関東は、戦国大名の代表である{{ruby|北条早雲|ほうじょうそううん}}があらわれ、その地方の争いをおさめます。
:戦国大名は、その武将が強かったというよりは、多数の国人領主を味方につけたという性質があります。国人領主などが共同して('''{{ruby|国一揆|くにいっき}}'''<ref name="一揆"><span id="一揆"/>この時代、複数の人々が何かの目的を持って集まって行動すること約束すること({{ruby|盟約|めいやく}})を「'''{{ruby|一揆|いっき}}'''」と言っていました。国人が一揆することで「国一揆」、これに農民も加わると「{{ruby|土一揆|つちいっき}}」、一揆の人々が一向宗の信者(「{{ruby|門徒|もんと}}」と言います。国人などの武士も農民もいました。)であると「一向一揆」と呼ばれます。時代がくだって江戸時代に、農民がまとまって武士に反抗して争うことを、「'''{{ruby|百姓一揆|ひゃくしょういっき}}'''」と呼んでいます。</ref>)、守護大名をほろぼして、国人領主どうしの話し合いで国をおさめたものもあります。特に[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#浄土真宗|浄土真宗]]の本山{{ruby|本願寺|ほんがんじ}}の一派は[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#一向宗|'''{{ruby|一向宗|いっこうしゅう}}''']]と呼ばれて、本山本願寺はこれを全国各地で応援しました。これを、'''{{ruby|一向一揆|いっこういっき}}'''<ref name="一揆"/><span id="一向一揆"/>といいます。
:戦国時代になると、戦い方も、武士が一人一人ばらばらに戦うのではなく、軽装で大量の兵士が、{{ruby|長槍|ながやり}}や{{ruby|投石|とうせき}}(石を投げること)など単純な兵器を使って、集団で戦うやり方になりました。このような軽装の兵士は、普段は貧しい農民であったりした者で'''{{ruby|足軽|あしがる}}'''<span id="足軽"/>と呼ばれました。特に、次の節でのべる'''鉄砲伝来'''が、この戦い方に影響を与えました。足軽から武士になって出世をしていく者もあらわれました。
:戦国時代は、このように、今までの身分などの{{ruby|秩序|ちつじょ}}がみだれた時代でしたが、実力により世に出ることができる時代でもありました。
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:*{{ruby|武田信玄|たけだしんげん}}<span id="武田信玄"/>
:*:{{ruby|甲斐|かい}}国(現在の山梨県)の戦国大名です。{{ruby|武田|たけだ}}氏は、もともと守護大名です。信玄は、馬を使った{{ruby|戦|いくさ}}がたくみで、{{ruby|信濃|しなの}}国をめぐって上杉謙信と戦い、信濃を領地にし、{{ruby|今川|いまがわ}}氏が衰えたのち、駿河に南下し、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|徳川家康]]とたたかい、家康を敗退させます<span id="三方原の戦い"/>。そのまま、西に進み、[[#織田信長|織田信長]]とたたかおうとしたところで病で亡くなりました。
:*{{ruby|今川義元|いまがわよしもと}}<span id="いまがわよしもと今川義元"/>
:*:{{ruby|駿河|するが}}国と{{ruby|遠江|とおとおみ}}国(現在の静岡県中部から西部)の戦国大名です。{{ruby|今川|いまがわ}}氏は、足利家の一族の有力な守護大名です。義元は、隣接する北条氏や信玄ととも争いながら、ひけをとらない強力な戦国大名で、西に隣接する{{ruby|三河|みかわ}}国の大名{{ruby|松平|まつだいら}}氏をしたがえており、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#徳川家康|徳川家康]]も幼いころ人質にされていました。1560年、大軍で西に進み終わりを攻撃しようとしたところで、[[#織田信長|織田信長]]の奇襲にあってうたれました。
:*{{ruby|毛利元就|もうりもとなり}}<span id="毛利元就"/>