「小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代」の版間の差分

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:キリスト教は、紀元1世紀<ref>そもそも、イエス・キリストが生まれたとされる年を紀元1年としているので当たり前ですが。</ref>、現在のイスラエルで、その地に住んでいたユダヤ人の宗教ユダヤ教を元にイエス・キリスト<ref>名前が「イエス」で、「キリスト」は「救世主」の意味です。</ref>が説き、ヨーロッパ各地に広めた宗教です。イエス・キリストの教えは、ユダヤ教の教えとともに「'''{{ruby|聖書|せいしょ}}'''」という書物<ref>もともとのユダヤ教の教えの部分を「{{ruby|旧約|きゅうやく}}聖書」、イエス・キリストが登場した後の教えの部分を「{{ruby|新約|しんやく}}聖書」といいます。「訳」ではなく「約」であることに注意してください。これは、神様との{{ruby|契'''約'''|けいやく}}・{{ruby|'''約'''束|やくそく}}ということです。</ref>になって、キリスト教は、この聖書にもとづいて説かれています。
:キリスト教は、最初はヨーロッパから中東、アフリカ北部を支配していたローマ帝国から厳しい迫害を受けましたが、4世紀にはローマ帝国の国教になります。ローマ帝国がほろびた後も、ヨーロッパ全土にキリスト教の教えは広まり、ローマ教皇を頂点とする'''カトリック教会'''(ローマ教会)が、ヨーロッパにおいて宗教的な支配者となりました。また、同時に、教会も土地やそこで働く農奴を有して、領主としてもふるまうようになりました(日本のお寺が「荘園領主」になったのと同じことです)。こうして、経済的な力も持った教会は、しばしば、国王や貴族たちと対立するようになりました。なかには、神父など聖職者であるにもかかわらず、教会のお金で贅沢な生活をするものも現れました。
:<span id="宗教改革"/>16世紀(ちょうど大航海時代の頃)になって、イエス・キリストの教えはカトリック教会からではなくて、聖書から直接学ぶことができるという考え方が現れ、カトリック教会から独立してキリスト教を信仰する動きが出てきました。この考え方を、「'''プロテスタント'''」または「'''新教'''<ref>新教に対してカトリックを「'''旧教'''」ともいいます。</ref>」といいます。プロテスタントはローマから遠いドイツやフランスの北部に広まり、ヨーロッパ各地でカトリックとプロテスタントの争い<ref>単に宗教上の論争だけではなく、各々を信仰する貴族の間での戦争です。</ref>が起こりました。
:カトリック教会でも、このようなことになったことに反省し、その使命感を持った人々が集まり<ref>キリスト教では、同じ考えに共感を持った聖職者があつまって活動する場所を{{ruby|修道院|しゅうどういん}}といい、いくつかの修道院を含んだ、そのような集まりを{{ruby|修道会|しゅうどうかい}}と言います。</ref>、新たな布教活動を始めます。フランシスコ・ザビエルが所属するイエズス会もそのひとつです。
:<span id="キリスト教宣教"/>イエズス会などは、大航海時代で、ヨーロッパ人には新たな土地である、アジアや南北アメリカ大陸の各地へ布教にでかけます。宣教師たちは、キリスト教の教えとともに算術などの各種の学術、中には文字まで伝えるなどして、ヨーロッパ文明を伝え信者を増やしました。一方で、そのようにして信者を増やして、スペインなどが植民地としやすくしたとの話もあります。
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=== 安土桃山時代 ===
:1467年の応仁の乱から、約100年、戦国の世の中は、各地で有力な戦国大名が領土を拡大し各地方をまとめつつありましたが(このような状態を、{{ruby|群雄割拠|ぐんゆうかっきょ}}といいます)、[[#上杉謙信|上杉謙信]]と[[#武田信玄|武田信玄]]と[[#北条早雲|北条氏]]がお互い強力で動きが取れなくなったりして、世の中が平和になる見込みはありませんでした。そのような中、{{ruby|尾張|おわり}}(現在の愛知県の西部)に'''[[#織田信長|{{ruby|織田信長|おだのぶなが}}]]'''が現れました。信長は、尾張からはじまって約20年で[[#信長最大版図|京都をはじめとした日本の中心部]]をおさえ、天下を統一し戦国時代を終わらせるきっかけを作りました。信長は、家臣の{{ruby|明智光秀|あけちみつひで}}によって殺されますが、光秀をうった光秀を討った'''[[#豊臣秀吉|{{ruby|豊臣秀吉|とよとみひでよし}}]]'''が引き継いで天下を統一します。信長は滋賀県の{{ruby|安土|あづち}}に城をきずき政治を行い、それをついだ秀吉は京都の{{ruby|桃山|ももやま}}城(現在の京都市伏見区)で政治を行なったので、この時代を「'''{{ruby|安土|あづち}}{{ruby|桃山|ももやま}}時代'''<ref>別名を、「'''織'''田信長」と「'''豊'''臣秀吉」で'''{{ruby|織豊|しょくほう}}時代'''とも言います。</ref>」と言います。