「小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ」の版間の差分

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==== 武士と庶民 ====
:秀吉の刀狩によって、武士の身分(士分)と民衆が明確に分けられましたが、江戸幕府はそれを引き継ぎ、「'''士農工商'''」という身分制を確立しました<ref>。「'''士'''」は武士、「'''農'''」は農民、「'''工'''」は大工や{{ruby|鍛冶屋|かじや}}などの職人、「'''商'''」は商人のことです。なお、以前は、身分がこの順にあったと言われていましたが、現在では「士分」とその他は身分差があるが、「農工商」の庶民には身分の差がなかったというのが定説となっています。</ref>。またすなわち人の移動庶民厳しく制限さ武士にはな、各地に関所がもうないども「農工商」の間では比較的自由にその職業につけたというこを通とです。ただし、農民になるのに通行手形は、農地を持たないといけません必要で、それはむずかかっので、職人や商人が農民になることはまれだったと考えられます
:武士は、苗字を公式に名のることと刀を所持し外でさすこと(あわせて、'''{{ruby|苗字帯刀|みょうじたいとう}}'''といいます)、庶民が武士に対して失礼({{ruby|無礼|ぶれい}})な行為があったときには「{{ruby|無礼討|ぶれいう}}ち」と言ってその場で斬り殺しても良いこと({{ruby|切捨御免|きりすてごめん}}<ref>実際、そのようなことをすると、庶民の反発をまねくので、本当に「無礼」な行為があったかを証人などを呼んで裁判し、簡単に認められるものではありませんでした。</ref>)などの特権がありました。
:農村は、検地によって収穫高が明らかにされていたので、それにもとづいた{{ruby|年貢|ねんぐ}}をおさめました。年貢は、各農民ではなく村を単位としておさめていました<ref>これを、{{ruby|村請|むらうけ}}といいます。</ref>。農民は、自分の土地を持った{{ruby|本百姓|ほんびゃくしょう}}と、自分の土地を持たず本百姓の農地をたがやすなどして生活する{{ruby|水呑百姓|みずのみびゃくしょう}}がありました。
:農地は、1643年{{ruby|田畑永代売買禁止令|でんぱたえいたいばいばいきんしれい}}が出され、売買が禁止され代々相続されるものとなりました。また、同年{{ruby|田畑勝手作禁止令|でんぱたかってづくりきんしれい}}が出され、米以外の作物は勝手に作ることはできませんでした。
:職人は、{{ruby|親方|おやかた}}に{{ruby|弟子|でし}}入りし、仕事を手伝いながら、仕事を覚えやがて一人前になり独立するという{{ruby|徒弟制|とていせい}}になっていました。商人は、まず、{{ruby|丁稚|でっち}}として店に入り、やがて、{{ruby|手代|てだい}}・{{ruby|番頭|ばんとう}}となって、{{ruby|暖簾分|のれんわ}}けで独立するというものでした。職人も商人も、弟子や丁稚のころは、給金とかもらえず住み込みで働く{{ruby|年季奉公|ねんきぼうこう}}という形が一般的でした。
:職業の選択はこのように自由にできるものではなく、また、人の移動は厳しく制限され、各地に関所がもうけられ、ここを通るのに通行手形が必要でした。
:江戸時代になって、戦国時代や安土桃山時代に比べて、庶民の生活は安定したのですが、一方で移動の自由や職業選択の自由が失われたものとなったとも言えます。
 
==== キリスト教の禁止と鎖国 ====
:1600年{{ruby|豊後|ぶんご}}(現在の大分県)に'''オランダ'''の船リーフデ号が流れつきます。ポルトガル人とスペイン人以外の初めてのヨーロッパの人たちです。家康は、流れついた人の中からオランダ人の'''ヤン・ヨーステン'''とイギリス人の'''ウィリアム・アダムス'''<ref>後に、{{ruby|三浦按針|みうらあんじん}}と名を改めます。</ref>をめしだして、外国のことを聞くようになりました。これ以降、ポルトガル人たちに加えてオランダ人などが日本に来るようになりました。オランダ人たちはポルトガル人などに比べ、キリスト教の布教には熱心ではなく、また、そのことが幕府にも伝わりました。ポルトガル人やスペイン人を南蛮人と呼ぶのに対して、オランダ人やイギリス人は{{ruby|紅毛人|こうもうじん}}とよばれました。
:家康は、秀吉同様海外貿易に熱心で、東南アジアの国々<ref>{{ruby|安南|あんなん}}(現在のベトナム)、スペイン領であったフィリピンのマニラ、カンボジア、シャム(現在のタイ)、パタニ(マレー半島中部の国、現在のマレーシア)などに派遣しました。</ref>と交流を持って、{{ruby|朱印状|しゅいんじょう}}と呼ばれる貿易の許可証<ref>日本人には日本からの出国を外国人には日本への入国を認めるもので、もともとは秀吉が始めました。</ref>を発行して貿易を認めました。朱印状を持った船を{{ruby|朱印船|しゅいんせん}}と言い、この貿易を'''朱印船貿易'''と呼びます<ref>中国(明王朝)は、日本の入国を禁止していましたし、朝鮮は、対馬の大名{{ruby|宗|そう}}氏が代表していたので、朱印船貿易の相手ではありませんでした。</ref>。
:1612年南蛮貿易をめぐって幕府の役人に{{ruby|収賄汚職|ゅうわいょく}}事件がおこり<span id="岡本大八事件"/>、この関係者がキリシタンであったことから、幕府は大名と幕臣、江戸、京都など幕府の直轄地でのキリスト教の信仰を禁じました。1614年にはこれを全国に広げ、各地の教会を破壊し、宣教師や主だったキリスト教徒を国外に追放しました。
:その後も幕府は、中国船を含めた外国船の入港を制限したり、宣教師や信者を見せしめに処刑したりしてキリスト教の禁止を徹底しようとしましたが、宣教師が密かに来日して布教する例があとをたちませんでした。
:そんな中、1637年、現在の長崎県にある{{Ruby|島原|しまばら}}半島(現在の長崎県)から海をへだてた{{Ruby|天草|あまくさ}}諸島(現在の熊本県)にかけての一帯で、農民3万人あまりによる、大きな[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#一揆|{{Ruby|一揆|いっき}}]]が起きました。原因は、領主が領民に重い{{ruby|年貢|ねんぐ}}を課したこととキリシタンへの{{Ruby|弾圧|だんあつ}}でした。一揆の中心は、当時16才の{{Ruby|天草四郎|あまくさしろう}}という少年でした。幕府は12万人ほどの大軍を送り、4か月ほどかかってこれをしずめました。これを、「'''島原の乱'''」または「'''島原天草一揆'''」と言います。島原の乱は、戦死・処刑された農民などが2万人から3万人になり、幕府側も死傷者が8000人以上という江戸時代最大の百姓一揆で、これを最後に、これから、明治維新の戊辰戦争まで230年間、日本国内での争いことで100人をこえる死者が出ることがない、世界的にも珍しい平和な時代となりました。
:[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#南蛮貿易|南蛮貿易]]でもオランダ船による貿易であっても、日本が最も必要としたのは、生糸・絹織物<ref>この時代の、日本の絹は品質が悪く良いものは中国からの輸入品ばかりでした。</ref>、陶磁器といった中国で生産されるものと、[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#永楽通宝|永楽通宝]]のような貨幣でした。では、中国商人が直接取引をすればよいではないかという話になりそうですが、それは、簡単な話ではありませんでした。
:明の王朝は14世紀から[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#倭寇|{{ruby|倭寇|わこう}}]]<ref>倭寇は、14世紀に[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#勘合貿易|足利義満が勘合貿易を始めた]]ことで一時収まりますが、その後、勘合貿易をまかされていた大内氏がほろびた1550年代以降、海賊がまた増え、これも倭寇と呼ばれました。ただし、16世紀になってからの倭寇は、ほとんどが中国人でした。</ref>になやまされて、海外貿易をしばしば禁止しました。
:1644年、明は国内の反乱によってほろびその反乱軍も中国北部の国'''{{ruby|清|しん}}'''<span id="清"/>によってほろぼされます。
:清の建国に反抗して、明の家臣などが台湾にのこり{{ruby|抵抗|ていこう}}していました。清の王朝は、これを取り締まるため、清への[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#朝貢貿易|朝貢貿易]]以外は、明と同じように海外貿易を禁止しました。
:日本としては、中国の産品を手に入れにくくなったのですが、以下のとおり対応し輸入にたよらなくてもよくなりました。
:こうして、江戸時代になると、中国との貿易の必要がなくなって、江戸幕府は朝貢貿易はやりませんでした。その他も次第に規模が小さくなっていきました。
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|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="鎖国"/>鎖国までの道のり<small>
:秀吉も家康もキリスト教の布教を禁止し、ポルトガル人やスペイン人の宣教師は国外へ追放しましたが、南蛮貿易は、大きな利益をもたらしていたため、そのまま継続し、それにかかわる宣教師以外のポルトガル人などの往来は自由になされていました。そのため、幕府などに隠れて布教は進み、キリシタンの数は増えていきました。
:1609年から1612年にかけて起こったポルトガルとの貿易に関するキリシタン大名{{ruby|有馬晴信|ありまはるのぶ}}をめぐる事件からは、家康側近{{ruby|本多正純|ほんだまさずみ}}の家臣でキリシタンである{{ruby|岡本大八|おかもとだいはち}}の高額な{{ruby|賄賂|わいろ}}の受け取りや、長崎奉行{{ruby|長谷川藤広|はせがわふじひろ}}暗殺陰謀など、数々の{{ruby|不祥事|ふしょうじ}}が発覚し、ヤン・ヨーステンなどの進言もあって、家康はポルトガルとの付き合いに不信感を持つようになりました。
:1609年キリシタン大名{{ruby|有馬晴信|ありまはるのぶ}}の朱印船が、途中の寄港地ポルトガル領マカオで船員にトラブルがあり、:1616年幕府は、明船以外の外国船との貿易を{{Ruby|長崎|ながさき}}と{{Ruby|平戸|ひらど}}のみに制限しました。
:それでも、1620年商人といつわってスペイン人宣教師が日本に入国しようとした事件があり、それをきっかけに1622年長崎でとらわれていた宣教師とキリスト教徒55人を処刑するなど、幕府はキリスト教対策に追われ、1624年、まず、スペイン人の来航を禁止しました<ref>ポルトガルとの通商が認められたのは、ポルトガルはマカオを有しており、中国との間の取引が、オランダだけでは不安だったからです。</ref>。
:幕府は、その後も規制を強め、1631年朱印状以外に老中の奉書を必要とするようにし、大名や日本人商人の朱印船をなくし、1635年には外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人が国外に出ることと[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#日本人町|東南アジアに住んでいた日本人]]の帰国を禁止しました。
:また、南蛮貿易の最大の目的である中国は、1619年以降{{ruby|女真|じょしん}}族({{ruby|満州|まんしゅう}}族、のちの[[#清|清王朝]])の南下と国内の反乱で国内が混乱し、貿易品も少なくなっていました。
1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
:島原の乱後1639年の鎖国令によってポルトガル船の来航が禁止され、1641年オランダ商館を平戸から出島に移し、鎖国は完成しました。
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
・1634年(寛永11年) 「第2次鎖国令」(第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始)が出される
・1635年(寛永12年5月) 「第3次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出される 
・1636年(寛永13年5月19日) 「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)が出される
・1637年(寛永14年) 島原の乱が始まり、幕府に武器弾薬をオランダが援助する
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される ポルトガル船の来航を禁止する
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1641年(寛永18年4月) オランダ商館を平戸から出島に移す平戸にあったオランダ人の商館を、長崎の出島に移す
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[[Category:小学校社会|6ねん]]
[[Category:小学校社会 歴史|#9]]
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