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小学校社会/6学年/歴史編/下巻から小学校社会/6学年/歴史編/下巻#新しい文化と学問を分離、加筆修正。 |
(相違点なし)
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2022年1月11日 (火) 06:10時点における版
★時代区分:江戸時代中期
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島原の乱からペリー来航まで
- 島原の乱が終わると、日本は安定し大きな戦争などもなく、人々の生活にも変化の少ない時代が約200年続きます。
- この時代も幕府などの政治は色々と動いていて、経済も変化しているのですが、小学生の学習の範囲とはなっておらず、この時代の文化や学問の動きが学習の対象となっています。ただ、それらの文化や学問の時代背景として理解しておいた方が、理解の助けになるので、この節で簡単に述べます。
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江戸時代の文化
- 元禄文化
- 「
元禄 」は、江戸幕府ができてだいたい100年くらいの元号です。このころ、大阪を中心に最初の町人文化の開花が見られました。元禄の頃の文化を「元禄文化」と言います。仮名草子・浮世草子といった出版物が市中に出回るようになり、人形浄瑠璃 や歌舞伎が庶民に人気を得て、井原西鶴 や近松門左衛門 といった小説家・劇作家がでました。 - 連歌から発達した俳句(俳諧)が流行し、
松尾芭蕉 は、それを芸術のレベルまで高めたと言われています。 - 絵画も大衆化し、このころ
菱川師宣 が浮世絵 を創始しました。浮世絵は、版画の一種で何枚も同じ絵をすることができるので、庶民でもこれを買い求めることができました。 - 化政文化
- 江戸は幕府が開かれた当時は、全国から武士のみが集まる都市でしたが、元禄から、100年ほど後の「
文化 」「文政 」といった元号の時期には、武士以外の商人や職人なども増えて、町人文化が見られるようになりました。これを、「文化」「文政」から、「化政 文化」といいます。 喜多川歌麿 や東洲斎写楽 は歌舞伎役者の肖像画を、歌川広重 は『東海道五十三次絵』などの風景画を、葛飾北斎 は『冨嶽三十六景』など風景画のほか様々な構図の絵をあらわしました。
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- 浮世絵は、国内のみならず、オランダ貿易で持ち出されたもの[2]がフランスなどの絵画にも影響を与えました。
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【脱線 - 覚えなくてもいい話】江戸時代の商業
江戸時代は、それまでの時代と比べて商業が特に発達した時代でした。商業の発達によって、大阪や江戸といった都市が発達し、そこの住民に町人文化が発達しました。商家は過去に見ることのないほど大きくなりました。ここでは、江戸時代に特徴的な商業について紹介します。
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江戸時代の学問
- 戦国時代までの学問は主に寺院で、僧侶などにより、仏教や中国の古典が研究されていましたが、江戸時代になると、様々な階層の人々の研究が見られるようになります。
儒学 - 幕府が公認していた学問は儒学のうち
朱子学 と言われるものでした。家康は、朱子学の学者である林羅山 を重く用い、幕臣に朱子学を学ばせました。第5代将軍綱吉は、世の中が平和になったので、それまで武士は、何かと武力で解決しようとしていた(武断政治)のを、何が正しいかを議論することや法令によって解決できるよう(文治政治)、武士に儒学を学ぶよう命じました。林羅山の子孫は、代々幕府で学問の責任者となります。羅山のころは、私的な塾で教えられていたのですが、その塾をもとに、後に幕府は昌平坂 学問所 をつくります。 - 朱子学は、各藩でも
藩校 がつくられ、そこで教えられました。 - 国学
- この時代、日本の古典についても研究が進み、
国学 が成立しました。国学の成立に大きく貢献したのが本居宣長です。国学は、のちの「尊王攘夷 」の考えなどに影響します。
- 蘭学
- 鎖国のため、ヨーロッパの文化には直接触れることはできなかったのですが、第8代将軍吉宗は、キリスト教関連以外の書物に限って、オランダ語の書物の輸入を認めました。それ以降、これを訳して読むことで、当時急速に進みつつあったヨーロッパの科学に触れることができました。このような学問を
蘭学 と言います。 - 医者の
杉田玄白 ・前野良沢 らはオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を見て、実際に死体の解剖を行い、それが非常に正確に記述されていることを知って感心し、これを4年かけて翻訳して、1774年『解体新書』をあらわしました。このころは、まだ、オランダ語の辞書はなく、大変苦労した話を『蘭学事始 』に記しました。
- 学問の実践
- 伊能忠敬は、天文学や測量術を学んだ他、独自に測量方法を工夫し、日本全国を訪れ、正確な日本地図『
大日本沿海輿地全図 』を作りました。 - 教育
- 農民や町民などの
庶民 は、寺子屋 で文字の読み書きやそろばんなどを学びました。
コラム |
伊能忠敬
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【脱線 - 覚えなくてもいい話】儒学・儒教
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脚注
以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。
- ^ 江戸や大阪といった都市の民衆が、政治などに不満を持った大きな商人などの店を集団でこわすことを言います。都市における百姓一揆みたいなものです。
- ^ もともとは、美術品として持ち出されたものではなく、陶器の輸出に詰め物として使われた屑紙として伝わったものと言われています。
- ^ ただし、明治になるまで、永楽通宝1000文=金1両として扱われました。
- ^ 米がとれ、それを年貢に取り立てることで幕府や各藩は支払いがはじめてできます。ですから、ある程度高額なものについては、支払いがいつでもできるわけではなく、支払うためのお金を準備する期間をもうけるというのが習慣としてありました。
- ^ 現在では一般的となった売り方です。
- ^ 儒学の重要な書物の一つです。