「小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代」の版間の差分

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:まず741年に国ごとに{{ruby|国分寺|こくぶんじ}}と{{ruby|国分尼寺|こくぶんにじ}}を建てさせました。そして、都には国分寺の総本山として{{ruby|東大寺|とうだいじ}}を建てさせ、そのなかに銅製の'''大仏'''を作らせました。そのころには、この巨大な仏像(高さ約15m、周囲約70m)を作る金属加工の技術はありましたが、これほど大きな仏像を作った経験はなかったため、建立には苦労をきわめ、752年の完成まで7年かかりました。
{{-}}
[[File:Gyouki Face.jpg.svg|thumb|180px|行基]]
:仏教はもともと、[[#渡来人|渡来人]]が伝え、一族の宗教とし、やがて、天皇をはじめとする支配階級に広がっていったものでした。遣唐使にともなって留学し、帰国して寺を開く僧もふえ、平城京には多くの寺とそこで学ぶ僧が見られるようになりましたが、彼らの多くは仏教を学問としてとらえ、民衆のことを考えることはあまりありませんでした。
:このころ、'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#行基(ぎょうき)|行基]]|ぎょうき}}'''という僧がいました。かれは、渡来人の子孫で、身分を問わず用水の池や橋を造りながら、諸国をまわって教えを説いていたので、多くの人々にしたわれていました<ref>この民衆の生活に深くかかわろうとする教えは、{{Ruby|道昭|どうしょう}}に学びました。道昭は遣唐使で留学し、{{Ruby|玄奘|げんじょう}}に学んでいます。玄奘は、『西遊記』の三蔵法師のモデルになった人です。</ref>。はじめのうちは、当時、民衆への仏教の直接の布教は禁止されており危険な人物と思われ、朝廷は行基の行動をとりしまりました。しかし、民衆や地方豪族の支持を集め、朝廷も危険な行動ではないと理解し、とりしまりをゆるめました。