「小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代」の版間の差分

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:*'''律令制の成立'''
:*:白村江の戦いの敗北は、国の仕組みが遅れていることを自覚させました。唐が強大な理由の一つは、国づくりの基本がしっかりとした法律もとづいているからだと考えた天智天皇は、唐と同じような国づくりを目指して、668年に{{ruby|近江令|おうみりょう}}という法律を決めます。
:*:天智天皇は671年に亡くなり、<span id="壬申の乱"/>翌672年、天智天皇の子{{ruby|大友皇子|おおともの王子おうじ}}と弟{{ruby|大海人皇子|おおあまのおうじ}}がはげしく争い({{ruby|壬申|じんしん}}の乱)、大海人皇子が即位し、'''天武天皇'''となります。
:*:天武天皇は、681年、よりよい法律を定めるように命じ、686年天武天皇が亡くなったあとの689年に{{ruby|飛鳥浄御原令|あすかきよみはらりょう}}が完成しました。しかし、飛鳥浄御原令は、役所の仕組みや税の仕組みなどを決めた「{{ruby|令|りょう}}」の部分しかなく、まだ、犯罪の処罰について決めた「{{ruby|律|りつ}}」の部分はありませんでした。
:*:法律の研究はさらに進み、701年に、「律」の部分もそろった '''{{Ruby|大宝律令|たいほうりつりょう}}'''が完成して、しっかりとした法律にもとづく天皇を中心とした国づくりが完成することになります<ref>「'''日本'''」という国の名前は、大宝律令の完成にともない、「倭」に代わって、決められたとも言われています。</ref>。この律令によって、政治を行うことを「'''{{Ruby|律令制|りつりょうせい}}'''」 と言います。