「小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ」の版間の差分

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*:家臣への給与としての米も米商人に売ることで武士は現金をえました。江戸では旗本や御家人の米を買い取る米商人を{{ruby|札差|ふださし}}といい、米問屋が大名に対してやったのと同じように、旗本や御家人に貸し付けを行いました。
*:米の売買はこのように日本中で大規模に取引されましたが、特に大阪には、{{ruby|堂島|どうじま}}{{ruby|米会所|こめかいしょ}}という取引所ができて、ここでの取引価格が米の値段を決めていました。堂島米会所では、毎日取引がなされ、この結果は、「{{ruby|旗振|はたふ}}り通信」という旗や夜間{{ruby|松明|たいまつ}}を振って、リレーで伝える方法で、全国に伝えられました。大阪から江戸まで、2時間から8時間で伝わったそうです。
*'''{{ruby|両替|りょうがえ}}商'''<span id="両替商"/>
*:江戸時代の日常生活で使われた貨幣は、1636年に発行が開始された'''{{ruby|寛永通宝|かんえいつうほう}}'''<span id="寛永通宝">でした。寛永通宝が安定して発行されるようになったので、[[小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代#永楽通宝|永楽通宝]]などを使用する必要はなくなりました<ref>ただし、明治になるまで、永楽通宝1000文=金1両として扱われました。</ref>。
*:しかし、大きな取引になると、寛永通宝では枚数が多くなって不便なので、商人の間の取引や職人の給金の支払いには、'''銀'''が使われました。江戸時代の初めは、銀の重さで取引をしていて、幕府が重さを保証した大型の{{ruby|丁銀|ちょうぎん}}や小型の{{ruby|豆板銀|まめいたぎん}}が流通していましたが、江戸幕府の後期に、{{ruby|一朱銀|いっしゅぎん}}・{{ruby|二朱銀|にしゅぎん}}・{{ruby|一分銀|いちぶぎん}}のような貨幣が発行されました。銀貨を{{ruby|鋳造|ちゅうぞう}}していた所を、「{{ruby|銀座|ぎんざ}}」といい、現在の東京都中央区銀座にありました。
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=== 江戸時代の学問 ===
:戦国時代までの学問は主に寺院で、僧侶などにより、仏教や中国の古典が研究されていましたが、江戸時代になると、様々な階層の人々の研究が見られるようになります。