「小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ」の版間の差分

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*'''{{ruby|呉服|ごふく}}商'''
*:元禄の少し前、江戸の日本橋のたもとに呉服屋{{ruby|越後屋|えちごや}}を開いた{{ruby|三井高利|みついたかとし}}は、それまで、呉服の{{ruby|反物|たんもの}}は、むかしから取引のある客(得意客)に見本を見せ、値段を交渉し、1反(呉服一着分)を単位に届け、支払いは後日の{{ruby|掛払|かけばら}}い<ref>米がとれ、それを年貢に取り立てることで幕府や各藩は支払いがはじめてできます。ですから、ある程度高額なものについては、支払いがいつでもできるわけではなく、支払うためのお金を準備する期間をもうけるというのが習慣としてありました。</ref>という習慣に対して、{{ruby|現金|げんきん}}{{ruby|掛値|かけね}}無し(現金払いでの定価販売)、必要分だけ反物の切り売り、店に来た客には誰でも売るという売り方<ref>現在では一般的となった売り方です。</ref>にかえて、売りはじめました。手間などが減った分安く売ることがてきたので、大変はやり、越後屋は大きな店となりました。これが、後に{{ruby|三越|みつこし}}('''三'''井・'''越'''後屋)となり、現在の三井グループのルーツとなります。
*'''{{ruby|廻船|かいせん}}{{ruby|問屋|どんや}}'''<span id="廻船問屋"/>
*:[[File:Sailboat on Blue Water LACMA 16.16.11.jpg|thumb|180px|千石船]]
*:当時、大量の物資を運ぶために江戸と上方、さらには瀬戸内海を経由し、日本海を北上し{{ruby|出羽|でわ}}(現在の山形県)までをつなぐ、定期的な船の行き来がありました。このような船をつかって、荷物を運んだ商人を{{ruby|廻船|かいせん}}{{ruby|問屋|どんや}}と言います。