「小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代」の版間の差分

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== 武士の誕生 ==
:平安時代のなかば10世紀頃には、班田収授法ができなくなり、また[[#荘園|荘園]]が広がってきたことで、朝廷の税収が減り、全国特に地方の安全を守ることが難しくなっていました<ref>律令制では、もともと警察や裁判は「{{ruby|刑部省|ぎょうぶしょう}}」「{{ruby|弾正台|だんじょうだい}}」という役所の役割でしたが、平安時代初期(9世紀)に「{{ruby|検非違使|けびいし}}<span id="検非違使">」という役所ができて、その役所の役割となっていました。</ref>。また、[[#不入|荘園には朝廷の役人が入れないところもあり]]、{{ruby|治安|ちあん}}に不安がありました。そこで、荘園領主などは武装したものをやとって、または、農民とともに自ら武装して、治安を守るようになりました。これが'''{{ruby|武士|ぶし}}'''の始まりと考えられています。
:武士は、集団である方が有利であるので、有力な武士を中心に集まり'''{{ruby|武士団|ぶしだん}}'''<span id="武士団">をつくります。武士団の長には、[[#下向|都を捨ててやってきた貴族]]<ref name="源平">源氏・平氏など天皇の子孫もいました。例えば、桓武天皇の孫{{ruby|高望王|たかもちおう}}が、平氏の姓をうけ{{ruby|平高望|たいらのたかもち}}となって、国司として関東に下ります。そこで、[[#武士団|武士団]]を作って子孫が定住します。その、平高望の孫が[[#平将門|平将門]]です。[[#藤原純友|藤原純友]]は藤原氏の出身で祖父の弟に最初に関白となった藤原{{ruby|基経|もとつね}}がいますが、京都での出世をあきらめ、早くから{{ruby|伊予|いよ}}(現在の愛媛県)の国司となり、海賊(海を舞台にした武士団と言っていいでしょう)の取り締まりをしていました。そして、逆に海賊の頭領となって反乱を起こしました。</ref>がなる例も少なくありませんでした。
:やがて、各地の武士は町政朝廷の政治に不満をいだいて反乱を起こすようになります。939年関東の武士'''{{ruby|平将門|たいらのまさかど}}'''<span id="平将門"><ref name="源平"/>は朝廷に対して関東で反乱を起こします。同時期に、それと独立して'''{{ruby|藤原純友|ふじわらのすみとも}}'''<span id="藤原純友">が瀬戸内地方から北部九州で反乱を起こします。朝廷は、自分の軍隊を出すことはできず、他の武士団に命じてようやくこれをしずめることができました。
:このように、10世紀以降にあっては、武士の力がなくては地方の治安は維持できないようになってきており、やがて、平安京や宮中の警護においても武士にたよるようになってきました。
:また、大きな寺や神社には、「{{ruby|僧兵|そうへい}}<span id="僧兵"/>」「{{ruby|神人|じにん}}」と呼ばれる、武装した僧や神官がいて、武士同様寺社領の警護などを行なっていました。