「小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代」の版間の差分

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:これらの改革によって、たとえば、布地が安く手に入るようになったり、蒸気機関車で短時間で遠くまで移動できるようになるなど人々の生活は大きく便利に変わりました('''文明開化''')。
:[[File:Tomomi Iwakura 3.jpg|thumb|160px|遣欧使節団途中で、まげを切った岩倉具視。[[#使節団|使節団出発の時]]と比べてみてください。]]
:1871年(明治4年)「{{ruby|断髪令|だんぱつれい}}」が出され、それまで、身分によって髪型({{ruby|髷|まげ}}、「ちょんまげ」はまげの一種です)が決まっていて、その形にすることが決っていものが、どのような髪型をしても良いことになりました。多く、ほとんどの人がまげを切りました。当時、まげを切ったばかりの髪型を「ザンギリ{{ruby|頭|あたま}}」と言われていました。庶民の間では、「''ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする''」などと言われ、生活が変わったことの実感として受け取られました。
:欧米人が数多く訪問したり、居住したりするようになり、牛肉や豚肉などの肉食の習慣や牛乳を飲むなどの新しい食習慣が少しずつ広がりました<ref>肉食は、仏教の教えから嫌われていたと言われていますが、それ魚やニワトリは普段の生活でも食べており(ただし、ニワトリもめったに食べることはできないものでした)、ウサギやイノシシなどの野生の獣は食べていたので、仏教の影響というよりはよりも、牛や豚といった食料用の家畜を飼う習慣や家畜を解体して食材にする習慣があまりなかったという理由の方が大きいです。来日した外国人のために、家畜を飼ってそれを料理にする仕組みが整えられたため、それを利用し、一般の日本人も食べるようになったという側面も大きいでしょう。また、軍隊で体格をよくするという目的で肉食がすすめられたという点も見逃せません。</ref>。
:衣服も江戸時代は身分によって決められていました。明治になって、その制限は無くなりました。すぐに、全て洋服に変わったわけではありませんが、機械工場で生産する布地は、和服の反物より安く入手できたので徐々にデザインも洋装にちかづいていきました。
:開国に伴って、キリスト教の宣教師も来日するようになりました。江戸幕府は禁教令をそのままにして、日本人がキリスト教徒になる事を禁じていました。明治政府も最初はそれを引き継ぎましたが、外国人達の強い抗議があって1873年(明治6年)以降、キリスト教を含めた宗教の布教や信者になることについて一切の制限がなくなりました。
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:身分制をなくしたので、生まれた家に関わらず、個人の努力によって政治をはじめとする社会のあらゆる分野にかかわることができるようになりました。このような社会にあった「自由」や「平等」など「権利」「人権」といった欧米の考え方が'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#福沢諭吉|{{ruby|福沢諭吉|ふくざわゆきち}}]]'''などにより紹介されました。
:明治政府は、さまざまな改革を強引に進めたため民衆と対立することも少なくありませんでした。このような民衆の不満は、[[#士族の反乱|士族の反乱]]の後は、こうした近代思想を取り入れて政治参加を求める{{ruby|自由民権|じゆうみんけん}}運動につながります。自由民権運動は、憲法の制定と、民衆が政治に参加できる選挙を通じた国会の開設をもとめるようになります。自由民権運動は、征韓論で下野した'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#板垣退助|{{ruby|板垣退助|いたがきたいすけ}}]]'''と1881年(明治14年)に伊藤博文らと対立して政府を離れた'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#大隈重信|{{ruby|大隈重信|おおくましげのぶ}}]]'''らに主導されました。
 
== 脚注 ==
以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small>