「小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代」の版間の差分

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== 黒船来航と江戸幕府の終わり ==
=== 世界の変化1 - 産業革命 ===
[[File:Maquina vapor Watt ETSIIM.jpg|thumb|250px|ワットの蒸気機関、最初は炭鉱の水の排出に使われました。]]
[[File:First passenger railway 1830.jpg|thumb|250px|スティーブンソンが実用化した蒸気機関車]]
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:ワットの蒸気機関は石炭を燃やすだけで大きな力を得ることができ、当時、おこりつつあった'''{{ruby|繊維|せんい}}工業'''の生産力を爆発的に向上させました。繊維工業には、大きく分けて、細かい繊維をまとめて糸にする工程({{ruby|紡績|ぼうせき}})と、糸を縦横に組み合わせて布にする工程({{ruby|織布|しょくふ}})があります。紡績には、細かい繊維をくるくるとより合わせて長い糸を作る作業があり、また、織布には横に交互に張った縦糸に横糸を通して力をかけてまとめるという作業があります。これらの作業は、もともと人力でやっていたため、大量の生産は期待できませんでした。一部には水車を使った水力も使われていましたが、工場の立地が限られるという難点がありました。この動力源として、ともに蒸気機関が用いられるようになったのです。
:また、蒸気機関を動力とした乗り物が開発されました。19世紀の初頭には、蒸気機関を船の動力とした'''蒸気船'''がアメリカ人ロバート・フルトンによって、'''蒸気機関車'''を使った'''鉄道'''がジョージ・スチーブンソンによってイギリスで実用化されました。
:こうして、鉄や、繊維や布といった工業製品を大量に製造し、それを鉄道や蒸気船で大量・安価かつ高速に輸送することが可能になりました。これを、「'''産業革命'''」と言います。産業革命は、イギリスにはじまって、ヨーロッパ各国、大西洋を越えてアメリカでもおこりました<ref>同じ時期に、ヨーロッパやアメリカ大陸では、身分に関係なく人々が国の政治に参加するという、もうひとつの大きな社会変革が起こっていました。この変革については、[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#世界の変化2 - 市民革命|次の章]]でお話しします。</ref>
:欧米各国は、産業革命で経済力が大きくなりましたが、さらにそれを大きくするため、国内で生産する工業製品の{{ruby|市場|しじょう}}と原材料となる農産物や鉱物資源を欧米諸国の外に求めるようになりました。
:例えば、この頃、インドは、イギリスからの安く良質な綿製品が流れ込み、国内の綿工業は衰退する一方で、輸入などにあたっての資金はイギリスから貸し付けられたため、イギリスの影響力が極めて強い状態になっていたところ、1857年の反乱がきっかけとなって、イギリスの植民地となりました。また、中国(清)からは、大量の茶を輸入していたのですが、代わりに清に輸出するものがなく、麻薬であるアヘンを密かに売っていました。そのため、1840年イギリスは清と戦争(アヘン戦争)になり、香港を領土としたりしていました。この状況は、日本にも伝わり、一部の人たちはヨーロッパ各国に対して警戒するようになっていました。
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:*肥前藩 - {{ruby|江藤新平|えとうしんぺい}}、{{ruby|副島種臣|そえじまたねおみ}}、{{ruby|大隈重信|おおくましげのぶ}}
:江戸幕府が滅びたのちも、徳川家の領地などは、「府」や「県」をおいて新政府がおさめることとなったのですが、そのほかの大名の領地はそのままで、大名が{{ruby|知藩事|ちはんじ}}<ref>名前は、すぐに、「藩知事」と改められます。</ref>と名を変えておさめていました。藩と府県は入り組んでおり行政には非効率でした。また、新政府直轄の府県は合わせても全国の4分の1程度で、新政府は改革の資金を得るのに苦労する一方で、各藩では財政が悪化し、廃藩を願い出るところもありました。
:こうしたことを受け、1871年(明治4年)新政府は幕府だけでなく、藩も廃止し、政府が全国を直接治める形に変えました(<span id="廃藩置県"/>'''{{ruby|廃藩置県|はいはんちけん}}''')<ref name="新政府"/>。また、'''四民平等'''<refspan nameid="四民平等"/>をうたって、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#武士と庶民|「名字帯刀」などの武士の特権]]を否定しました。廃藩置県によって、武士の世の中は完全に終わりました。
:「農工商」と言われていた庶民<ref>明治の戸籍においては「家」が単位となりました。戸籍に、もともと武士であった「家」は、「士族」とされ、その他、「農工商」の庶民の「家」は「平民」と書かれました。</ref>も、等しく姓をなのることができるようになり、同年制定の戸籍法に基づいて翌1872年(明治5年)近代的な戸籍<span id="戸籍制度"/>に記録されました。
:新政府は、その他法律・裁判・軍隊・警察・経済・金融・税制・工業・鉄道・海運・郵便・電信・学校・暦など数多い分野で、欧米を模範にした改革を行いました。