「小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代」の版間の差分

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:{{ruby|尾張|おわり}}はもともと{{ruby|斯波|しば}}氏が守護を務める国で、{{ruby|織田|おだ}}氏は尾張の守護代の家柄でした。しかも、信長の家系は守護代の家の分家にあたりましたが、父{{ruby|織田信秀|おだのぶひで}}が戦国大名として尾張をまとめ、隣国{{ruby|美濃|みの}}[[#斎藤道三|斎藤道三]]と結ぶなどしていました。
:一国のみの大名であった信長が有力大名になるきっかけは、1560年{{ruby|桶狭間|おけはざま}}の戦い<span id="桶狭間の戦い"/>です。これは、有力な戦国大名である{{ruby|駿河|するが}}の[[#今川義元|{{ruby|今川義元|いまがわよしもと}}]]が西に進めていた軍を、奇襲して義元を討ち取ったという戦いです。この戦いで、東側からせめられる心配がなくなり、信長は西へ進みます。
:1567年、道三の孫{{ruby|斎藤龍興|さいとうたつおき}}を追放し、美濃をえて、街の名を{{ruby|岐阜|ぎふ}}と変えて終わり尾張から移住し、翌1568年には、足利氏の一族である{{ruby|足利義昭|あしかがよしあき}}<ref>第12代将軍{{ruby|足利義晴|あしかがよしよしはる}}の子、第13代将軍{{ruby|足利義輝|あしかがよしてる}}の弟。当時、京都は、将軍義輝を殺した{{ruby|阿波|あわ}}の[[#三好氏|三好氏]]が京都を占領しており、それから逃げていました。</ref>を連れ、京都に入り、翌年第15代将軍としました。
:京都から近畿地方一帯を、自分の勢力におさめた信長は、当時、日本最大の貿易港であった{{ruby|堺|さかい}}を直接おさめ、堺の商人たちに自分たちの政治をまかせました。そうすることで、商業をさかんにし、'''南蛮貿易'''をはじめとした取引の利益を税としてえようとしました。
:また、このころ、キリスト教の{{ruby|宣教師|せんきょうし}}と初めて出会い、布教を許可しました。信長本人はキリスト教の信者ではなく、信長のねらいは、南蛮貿易のほか、宣教師のもたらす情報や、さらには当時に信長と{{ruby|敵対|てきたい}}していた仏教勢力への{{ruby|対策|たいさく}}などと言われています。
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==== 豊臣秀吉の天下統一 ====
[[File:Toyotomi_hideyoshi.jpg|thumb|200px|豊臣秀吉。秀吉は、もともと農民でしたが、武士になりました。そして、信長に{{Ruby|認|みと}}められ、信長の部下になりました。]]