「小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代」の版間の差分

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:幕府では大混乱となり<ref>ペリーが浦賀から去った10日後の7月27日、病床にあった第12代将軍家慶が死去、将軍後継者の家定は病弱でこの混乱を抑えられる人ではありませんでした。</ref>、幕府内だけでは対応ができず、8月5日、老中筆頭の{{ruby|阿部正弘|あべまさひろ}}は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも外交についての意見を求めました。これは江戸幕府が始まって以来初めてのことでした。しかしながら、良案は出ない一方で大名などに、幕府に意見をしても良いという風潮が生まれました。
:ペリーは、返事を翌年にするとの約束のところ、日本での混乱を聞きつけ半年後の1854年2月13日に再び浦賀に現れました。幕府はペリーと交渉し、3月31日米国の船舶が港湾を利用することなどを認める'''{{ruby|日米和親条約|にちべいわしんじょうやく}}'''を結びました。その後、米国以外のヨーロッパ各国とも同様の条約を結び、1639年以来の鎖国は解かれました('''開国''')。
:欧米各国はさらに日本との貿易の条件などに関する通商条約の締結を求めます。日本国内では天皇が治める国であって({{ruby|尊皇|そんのう}})外国人を入れるべきではない({{ruby|攘夷|じょうい}})という考え('''尊王攘夷''')が全国的に起こり、幕府の動きがこれに反するものとして対立し、大老'''{{ruby|井伊直弼|いいなおすけ}}'''はこれを弾圧しました('''{{ruby|安政|あんせい}}の{{ruby|大獄|たいごく}}'''<span id="安政の大獄">)。井伊直弼は1858年アメリカとの間で'''{{ruby|日米修好通商条約|にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく}}'''、イギリス・フランス・オランダ・ロシアとの間で同様の'''通商条約'''の締結を強行しますが、翌年尊王攘夷派に暗殺されます('''{{ruby|桜田門外|さくらだもんがい}}の{{ruby|変|へん}}''')。日本は長い間他の国と外交をすることがなかったので、国際法の知識に乏しく、この時に結ばれた通商条約は、「'''{{ruby|治外法権|ちがいほうけん}}'''<ref><span id="治外法権">外国人が犯罪を犯した時に、その国の法律と裁判所ではなくて、犯罪を犯した外国人の本国の法律で、その国に駐在する本国の役人({{ruby|領事|りょうじ}})により裁判がなされる権利をいいます。「{{ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}」ともいいます。加害者側の国の法律で、加害者側の裁判所が裁くのですから、被害者側から見て不公平な判決がなされる、または、そう見えるおそれがあります。</ref>」があって、「'''{{ruby|関税自主権|かんぜいじしゅけん}}'''<ref><span id="関税自主権">{{ruby|関税|かんぜい}}とは、輸入する時に輸入国がかける税金です。主に、国外から安い品物が入ってくると、国内の産業が成り立たなくなるため、国内産業の保護の目的でかけられます。普通は、輸入国は自由に関税をかけたり、その税率を決めたりできるのですが、この通商条約により、自由に決めることができなくなっていました。</ref>」を認められない日本にとって不平等な条約でした。
 
=== 江戸幕府の終わり ===
:もともと、江戸幕府では、外様大名は幕府の政治に口を出すことはできなかったのですが、開国にあたって、意見を求めたことと、その後幕府が騒動をおさめられなかったことから、各地の大名の中には、幕府の政治に参加しようとしたり、幕府の政治を批判するものも見られるようになりました。また、開国と条約締結にあたって、幕府は朝廷(天皇)の許可を求めたため<ref>江戸幕府の仕組みとして、このような場合に、朝廷に許可を求める必要はなかったし、実際求めませんでした。形式的に許可が必要な時には、幕府は朝廷を強制して許可を出させていました。開国にあたって幕府は、自分で決められないところを朝廷に責任を移した結果、このようになりました。</ref>、「尊皇攘夷」を唱え、幕府の開国や条約改正に反対する各地の武士などが京都に集まっていました。