「小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代」の版間の差分

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:大隈や板垣が主導する自由民権運動の主張は、国民の自由と権利を保障する憲法の制定とそれに基づく国民の選挙による議会(民選議会)の開設及び議会による政府の統制でした。伊藤博文ら明治政府を主導する人たちは、自由民権運動の考えをそのまま受け入れると、政策を政府が思うとおりに進めることができず、富国強兵などの改革政策に差しさわりがあると考え、この運動を弾圧しました。一方で各地の有力者や、新たな産業の成功者が登場してきており、明治政府はこれらの人々の支持を受けたいと思っていました。また、欧米諸国から見ると、民選議会が政治を進めない国は遅れているとの意識があり、不平等条約改正にあたっても説得させることができない理由の一つとなっていました。
:1881年(明治14年)明治政府は、明治天皇名で「国会開設の勅諭」を下し、1889年(明治22年)に国会を開設することを国民に約束しました。これを受けて、自由民権運動の活動家は政党を結成し、同年には自由党が板垣退助を中心として、翌1882年(明治15年)立憲改進党が大隈重信らによって結成されました。
:一方、伊藤は、1882年(明治15年)、憲法制定・国会開設の模範を研究するためためにヨーロッパを視察しました。そこで、伊藤は議会が発達したイギリスや、人権思想が進んでいたフランスではなく、ドイツ帝国の憲法を模範にすることとしました<ref>この頃のドイツは、日本が藩に分かれていたのと同様に、多くの王国・貴族領に分かれていたものを、各地で統一の要望が上がり、その中で有力となったプロイセン国王を皇帝とするドイツ帝国が成立していました。ドイツ帝国は、イギリスやフランスよりも、皇帝(それを受けた行政機関)の権限が強く、議会の力はおさえられていました。ドイツは、英仏に比べ工業化などが遅れていたために、それを推進するために、強い行政の力が必要であったためです。また、各個人の人権についても制限がありました。伊藤が、英仏ではなく、ドイツを国の形の模範としたのは、このように、日本と状況が似ていたためです。</ref>。帰国した伊藤は憲法制定の準備をはじめ、1885年(明治18年)に内閣総理大臣を長とする'''内閣制度'''が創設され、1889年(明治22年)に'''大日本帝国憲法'''(明治憲法<span id="明治憲法"/>)が発布されました。翌1890年(明治23年)7月1日憲法の精神に基づいて<ref>明治憲法が、実際に有効となる(施行される)のは、1890年(明治23年)11月29日なので、まだ、憲法の下の選挙・国会の招集ではありませんでした。</ref>、初めて総選挙が行われ、11月25日'''帝国議会'''(国会)が召集されました。
:明治憲法は以下のことを定めています。
:#天皇は、日本の統治者とされます。
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==== 日清戦争 ====
[[File:《马关条约》签字时的情景.jpg|thumb|right|200px|none|下関条約の調印の様子。 向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権]]
: 急激な近代化に成功した日本は、国内で拡大した産業の新たな市場を求め大陸に進出しようとします<ref>「急激な近代化に成功した日本」と書きましたが、これは、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#世界の変化1 - 産業革命|前の章の『産業革命』の節]]に書いた「欧米各国は、産業革命で経済力が大きくなりましたが、さらにそれを大きくするため、国内で生産する工業製品の{{ruby|市場|しじょう}}と原材料となる農産物や鉱物資源を欧米諸国の外に求めるようになりました。」の部分を日本に当てはめたものです。しかし、この頃の日本の工業力はまだ近代化が始まったばかりで、外国に市場を求めるまで成長していません。</ref>。朝鮮は中国の帝国'''{{ruby|清|しん}}'''の属国でしたが、その影響で近代化が進んでおらず、朝鮮国内の近代化を求める人々は日本と協力して清の影響から逃れようとしました。朝鮮国内の清に従う保守派と改革派の争いに日本と清はそれぞれ兵を出すなどして緊張が高まり、1894年(明治27年)朝鮮半島西岸における両国海軍の接触をきっかけに'''日清戦争'''が始まりました。日本は清の北洋海軍を壊滅させ、黄海沿岸の軍事拠点を攻撃し、遼東半島を占領するなど戦いを有利に進め、翌1895年(明治28年)、'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#陸奥宗光|{{ruby|陸奥宗光|むつむねみつ}}]]<span id="陸奥宗光"/>'''外務大臣と清の提督である{{ruby|李鴻章|りこうしょう}}が交渉し、以下の事項などを定めた'''下関条約'''が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。
:#清は、朝鮮の独立を認める。
:#清は、日本へ台湾と{{ruby|遼東|<small>りょうとう/リャオトン</small>}}半島<ref name="中国地名">中国の地名については、日本語の音読みで読む方法と現代の中国語に近い音で読む方法があります。後者は、「音読みだと日本人にしか通じない」と言う配慮から現代の中国語に近い音を当てると言う意図なのかもしれませんが、実際の発音とは異なっているので中国人にも伝わらないでしょう。ですから、ここでは、原則として音読みで音をふりますが、{{ruby|北京|ペキン}}、{{ruby|上海|シャンハイ}}のように現代中国語音に似せた言い方が一般的になったものもありますので、それらは、よく使う言い方をカタカナで表記します。</ref>を割譲する。
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:ロシアは、ユーラシア大陸を横断する鉄道('''シベリア鉄道''')を建築し、ヨーロッパとアジアの間の物流をおさえようとしていました<ref>日本からイギリスやフランスまで、船ならば45日〜50日かかったところを、シベリア鉄道を使えば15日程度で移動できました。</ref>。シベリア鉄道は、もともと、ロシア領内をウラジオストックまでのものですが、ロシアは遼東半島支配に伴って、大連まで{{ruby|東清|とうしん}}鉄道を建設し、その途中である{{ruby|満州|まんしゅう}}地域<ref>現在は、中国東北部と呼ばれる地域です。もともと、「満州(満洲)」とは清王朝をおこした民族(女真族)の名前で地名ではありませんが、「満洲族が起こった土地」と言うことで通称として用いられるようになりました。このころから、1945年頃まで、満州は日本にとって歴史上重要な土地となります。</ref>を実質的に植民地とするなど支配を強めます。そして、満州に接する朝鮮(日清戦争後、{{ruby|大韓帝国|だいかんていこく}})の政治にも介入するなどしはじめました<ref>ロシア進出の背景には、大韓帝国の王室のメンバーや{{ruby|両班|ヤンバン}}と呼ばれる高級官僚らが、朝鮮の政治・経済に段々影響を強めてくる日本を警戒して、それに対抗するため、ロシアと通じていたということもあります。</ref>。
:日本は、ロシアの動きに対して警戒しました。ロシアが満州地域でやっていることは、他のヨーロッパ諸国がアジアやアフリカでやっていて、日清戦争後に中国本土で進められている植民地化であって、そのままでは、満州地域だけでなく、朝鮮半島も、さらには日本までもが、植民地となってしまうのではないかと考えました<ref>これは、大げさな話ではなく、アフリカの植民地化はこの時期に進み、19世紀末には独立国は、エジプト周辺、エチオピア、リベリアだけになっていましたし、アジアも1887年にフランスがベトナムを植民地にするなどして、独立を保っていたのはシャム王国(現在のタイ王国)くらいになっていました。</ref>。
:日本政府では、伊藤博文に代表される日露の衝突を外交努力などで避けるべきとするグループがあった一方で、陸軍に対して大きな影響を持った'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#山県有朋|{{ruby|山県|やまがた}}(山縣){{ruby|有朋|ありとも}}]]'''や首相の{{ruby|桂太郎|かつらたろう}}、外交官出身の外務大臣'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#小村寿太郎|{{ruby|小村寿太郎|こむらじゅたろう}}]]<span id="小村寿太郎"/>'''らは、戦争は避けられないので、それに向けての準備をするという態度に出ました。日本国内では、戦争に向け軍艦を整備したり新たな兵器の開発を行う一方で、ロシアの中央アジアからインドへの南下などを警戒するイギリスと同盟を結び、ロシアとの戦争に備えました。
[[file:Nichirojp.png|thumb|300px|日露戦争の経過]]
:1904年(明治37年)日本とロシアは開戦し('''日露戦争''')、日本とロシアは、ロシアが植民地としていた遼東半島や満州で戦いました。ロシアは、モスクワなどから遠い極東に兵や兵器・軍馬・食料などを送るには、シベリア鉄道に頼るしかないので、すぐに戦場で攻撃の体制を作ることはできません。一方で、日本も、兵などを送るには日本海を渡らなければならないので、この地域の{{ruby|制海|せいかい}}権<ref>ある地域を自由に航行できるということ。</ref>を握る必要がありました。海軍はロシアの太平洋側の主力艦隊である旅順艦隊をせめ有利な立場になりますが、旅順艦隊は、援軍である世界最大級の艦隊バルチック艦隊<ref>「バルト海」で行動する艦隊なのでバルチック艦隊といいます。</ref>が到着するまで、旅順港に待機することになりました。日本陸軍は遼東半島南端から東進鉄道沿いに北上、朝鮮国境からの軍とあわせ、ロシア軍を満州地域北部までおしもどしました。また、旅順に引き込んだ艦隊がバルチック艦隊と合流すると制海権が危うくなるので、'''{{ruby|乃木希典|のぎまれすけ}}'''<ref>死後、乃木神社にまつられます。乃木坂などの地名にも残っています。</ref>が率いる陸軍の軍団が、要塞となった旅順を攻撃します。この旅順を囲む戦いは、日露戦争の中でも多くの日本兵の犠牲を出しましたが1905年(明治38年)1月に降伏し、バルチック艦隊のみを迎えうつことになりました。そうして、5月に'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#東郷平八郎|{{ruby|東郷平八郎|とうごうへいはちろう}}]]'''がひきいる日本海軍は日本海海戦でバルチック艦隊をやぶり、日本海の制海権を安定したものにしました。
:日本は、戦争を有利に進めたとことで、アメリカ合衆国大統領'''セオドア・ルーズベルト'''に講和の仲介を依頼し、日本からは'''[[#小村寿太郎|小村寿太郎]]'''が、ロシアからは'''ウィッテ'''(前蔵相、のちに初代首相)が、米国のポーツマスに出向き、講和会議が開かれました。1905年9月5日、以下の事項を決めた条約('''ポーツマス条約''')が結ばれ、ロシアは中国から撤退し、日露戦争は日本の勝利で終わりました。
:# ロシアは日本の朝鮮半島における優越権を認める。
:# 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
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=== 条約改正と国際社会での地位の向上 ===
[[File:Chikamatsu Kiken buto no ryakuke.jpg|thumb|300px|鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵]]
: 幕末に欧米各国と結ばれた通商条約(不平等条約)の改正は日本政府の悲願でした。まず、政府は、国内の法整備を進め、公正な裁判が行われることを示し、日清戦争終結後の1899年治外法権を撤廃しました。そして、日露戦争の勝利は、世界に驚きをもってむかえられ、国際的地位も上がったことをうけて、1911年関税自主権も回復しました。
;不平等条約改正の歩み
:幕末に欧米各国と結ばれた通商条約(不平等条約)の改正は日本政府の悲願でした。
:明治政府は、文明開化が進んで欧米並みの文明国になったことを示すため、さまざまなアピールをします。たとえば、1883年(明治16年)に外務卿{{ruby|井上馨|いのうえかおる}}は、'''{{ruby|鹿鳴館|ろくめいかん}}'''という、外国からの重要な来訪者や外交官を接待するための社交場を建設し、舞踏会を開いたりしていました。鹿鳴館での舞踏会などには、政府高官の夫人や娘なども参加しましたが、当時はドレスなどの洋装、欧米風の応対のマナーやエチケット、また、ダンスなどは全く一般的ではなく、必死の訓練などがあったと言われています。しかし、このような取り組みは、欧米人には「{{ruby|滑稽|こっけい}}」と感じられたと言う記録も残っており、あまりうまくいきませんでした。
:一方で、政府は、まず[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#治外法権|治外法権]](領事裁判権)の撤廃のため、国内の法整備を進め、公正な裁判が行われることを諸外国に示そうとしました。領事裁判権の裁判は犯罪に関するものなので、法律に関するフランス人の[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#お雇い外国人|お雇い外国人]]ボアソナードが指導してフランスの法律をもとにして、1880年(明治13年)に犯罪とその刑罰に関する刑法<span id="刑法"/>と刑事手続と裁判を定めた治罪法<ref>後に、刑事訴訟法に改正されます。</ref>が制定され、1882年(明治15年)施行されました。1889年(明治22年)には、[[#明治憲法|明治憲法]]が発布され法制度が欧米並みに整理されたことが、国際的に示されました。外務大臣'''[[#陸奥宗光|陸奥宗光]]'''は、各国と粘り強く交渉し、まず、1897年(明治30年)イギリスとの間で治外法権を撤廃する条約を結び、日清戦争終結後の1899年(明治32年)すべての国との間で治外法権を撤廃しました。
:そして、日露戦争の勝利は、世界に驚きをもってむかえられ、国際的地位も上がったことをうけて、外務大臣'''[[#小村寿太郎|小村寿太郎]]'''が主導し、1911年関税自主権も回復しました。
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{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】大津事件<small>
:1891年(明治24年)、日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備中の警察官に突然サーベルで切りつけられケガを負うと言う事件がありました。
:驚いた日本政府は、すぐに明治天皇自身が見舞いに駆けつけるよう手配し、日本を離れる際も自身で見送りました。大国ロシアの皇太子に対して小国日本の国民しかも警察官が暗殺{{ruby|未遂|みすい}}<ref>殺そうとした相手が死ななかったことを言います。</ref>をおかしたということで、ロシアが攻めてくるかもしれない、そして、当時の日本ではロシアに勝てるはずがないということで、日本国内は、大騒ぎになりました。
:明治政府は、犯人を死刑に処してロシア政府に対して謝罪の意も示そうとしました。
:ところが、当時の[[#刑法|刑法]]では、殺人未遂の最高刑は無期{{ruby|徒刑|とけい}}<ref>現在の言い方では「無期{{ruby|懲役|ちょうえき}}」、一生、刑務所に入れられる刑です。</ref>で、死刑とすることはできません。そこで、政府は、天皇や皇室に暴行などを加え死傷させた場合に適用される{{ruby|大逆|たいぎゃく}}罪を適用するよう裁判所に要請しました。しかし、これは「法律に定められていること以外を罪としてはならない」という近代法の原則「{{ruby|罪刑|ざいけい}}{{ruby|法定|ほうてい}}主義」に反します。大審院院長<ref>現在の最高裁判所長官に相当します。</ref>{{ruby|児島惟謙|こじまいけん}}は、事件の裁判所に、法律に従って判決を下すよう指示し、その結果、死刑ではなく無期徒刑の判決となりました。
:このことは、ロシアとの外交関係を難しくさせるおそれがありましたが、欧米諸国に対しては、「日本は、法律を厳格に守る国である」ということが印象付けられ、条約改正に向けても信用を得ることができました。
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|}</div>
;国際社会での地位の向上
: 1912年大正天皇が即位し、元号が「'''大正'''」となりました。
: 1914年にヨーロッパの国々を二分した'''第一次世界大戦'''が始まりました。日本は、イギリスやフランスの属する連合国に参加し、敵対する同盟国の一つであるドイツが租借する中国の{{ruby|青島|チンタオ}}<ref name="中国地名"/>や南太平洋の島々を占領しました。1919年戦争は連合国の勝利に終わり、翌年、平和を維持するための'''国際連盟'''が設立、日本は英仏などとともに常任理事国の一つとなりました。
: このころになると、日本の科学技術の水準も世界的なものになり、'''野口英世'''のように国際的な研究者がでてくるようになりました。
 
== 脚注 ==
以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。<small>