「小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代」の版間の差分

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:#*法律や予算を決めるのは天皇であって、国会は、その補助をしているに過ぎないという考えを表しています。
:#*緊急と認められる時には、天皇<ref>実際は、行政府である政府の仕事です。</ref>は国会の議決によらず、法律に代わる勅令を出すことができました。
:#国会は、貴族院と衆議院により成り立ち、衆議院は選挙によって選ばれた議員により構成され、貴族院は皇族・華族<ref name="華族"/>及び勅命<ref>天皇の命令。実際は、その時の行政府による指名。</ref>で任名された議員により構成されます<ref>ただし、このような議会の成り立ちは、世界的に見ても珍しいものではありませんでした。明治憲法の元になったドイツ帝国の議会が貴族院と衆議院で成り立っていましたし、そもそも、議会政治の模範とされるイギリスも世襲貴族による「貴族院」と選挙で選ばれた議員による「庶民院」で構成されていて、現在もその伝統が残ります。このことで、身分で選ばれた議員による議会を「上院」、選挙で選ばれた議員による議会を「下院」という習慣ができました。アメリカ合衆国には独立当時から貴族制度はありませんでしたが、上院は各州の代表(元々は州議会が選出していましたが、現在は州民の選挙によります)、下院は州にかかわらず選挙で選ばれた議員による議会と、上院と下院で性質を変えていたりします。時代が下るにつれ、選挙で荒ばれた議員の決めることが優先されるという政治習慣(下院優先の原則)が有力になります。</ref>
:#*衆議院の優位などの定めはなく、各議院で議決されなければ法律などは成立しませんでした。
:#*<span id="制限選挙"/>衆議院議員の選挙権は、憲法を定めた当時は、一定以上の税金を納めた者にのみ認められていました。
:#国務大臣は天皇を{{ruby|輔弼|ほひつ}}(助言し助ける)すると定められます。また、内閣総理大臣についての定めはありません。
:#軍隊(陸海軍)は天皇が直接まとめひきいるとされました。また、国民には徴兵に応じる義務がありました。
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:明治政府は、文明開化が進んで欧米並みの文明国になったことを示すため、さまざまなアピールをします。たとえば、1883年(明治16年)に外務卿{{ruby|井上馨|いのうえかおる}}は、'''{{ruby|鹿鳴館|ろくめいかん}}'''という、外国からの重要な来訪者や外交官を接待するための社交場を建設し、舞踏会を開いたりしていました。鹿鳴館での舞踏会などには、政府高官の夫人や娘なども参加しましたが、当時はドレスなどの洋装、欧米風の応対のマナーやエチケット、また、ダンスなどは全く一般的ではなく、必死の訓練などがあったと言われています。しかし、このような取り組みは、欧米人には「{{ruby|滑稽|こっけい}}」と感じられたと言う記録も残っており、あまりうまくいきませんでした。
:一方で、政府は、まず[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#治外法権|治外法権]](領事裁判権)の撤廃のため、国内の法整備を進め、公正な裁判が行われることを諸外国に示そうとしました。領事裁判権の裁判は犯罪に関するものなので、法律に関するフランス人の[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#お雇い外国人|お雇い外国人]]ボアソナードが指導してフランスの法律をもとにして、1880年(明治13年)に犯罪とその刑罰に関する刑法<span id="刑法"/>と刑事手続と裁判を定めた治罪法<ref>後に、刑事訴訟法に改正されます。</ref>が制定され、1882年(明治15年)施行されました。1889年(明治22年)には、[[#明治憲法|明治憲法]]が発布され法制度が欧米並みに整理されたことが、国際的に示されました。外務大臣'''[[#陸奥宗光|陸奥宗光]]'''は、各国と粘り強く交渉し、まず、1897年(明治30年)イギリスとの間で治外法権を撤廃する条約を結び、日清戦争終結後の1899年(明治32年)すべての国との間で治外法権を撤廃しました。
:そして、日露戦争の勝利は、世界に驚きをもってむかえられ、国際的地位も上がったことをうけて、外務大臣'''[[#小村寿太郎|小村寿太郎]]'''が主導し、1911年(明治44年)関税自主権も回復しました。
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;国際社会での地位の向上
: 1912年(明治45年・大正元年)大正天皇が即位し、元号が「'''大正'''」となりました。
: 1914年(大正3年)にヨーロッパの国々を二分した'''第一次世界大戦'''が始まりました<ref>第一次世界大戦については[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで|次の章]]で詳しく説明します。</ref>。日本は、イギリスやフランスの属する連合国に参加し、敵対する同盟国の一つであるドイツが租借する中国の{{ruby|青島|チンタオ}}<ref name="中国地名"/>や南太平洋の島々を占領しました。1919年戦争は連合国の勝利に終わり、翌年、平和を維持するための'''国際連盟'''が設立、日本は英仏などとともに常任理事国の一つとなりました。
: 第一次世界大戦は、今までに見られなかったほどの大規模な戦争で、戦場が全国土に広がり多くの工場設備なども失われ、工業生産が止まってしまったりしました。しかし、主な戦場はヨーロッパで、日本への被害はほとんどなかったため、日本は、ヨーロッパの工業生産に代わって、綿糸や綿布といった繊維製品や化学肥料など、さまざまな工業製品を輸出しました。また、日本へのヨーロッパからの輸入が止まったため、それにかわる重工業などが起こるきっかけにもなりました。
:これらの第一次世界大戦の影響で日本の経済は急速に成長し、好景気をむかえました。この経済的余裕によって、国民生活は向上し、さまざまな近代文化の進展が見られました。また、学校制度が定着し教育水準が上がったことや、新聞や出版業の発達で国民の政治参加の意識も高まりました。
:さらに、日清戦争・日露戦争といった戦争で、納税額が多いかどうか、つまり財産が多いかどうかにかかわらず、国民として平等に生命を犠牲にするということが意識され、納税額による選挙権の制限([[#制限選挙|制限選挙]])をやめて、成人であれば誰にでも選挙権が与えられる「普通選挙」を求めた社会運動('''普選運動''')がおこり、1925年(大正14年)すべての男性が選挙権を有する普通選挙法が成立しました。このような、民主化の動きを「'''大正デモクラシー'''」と言います。しかし、まだ女性には選挙権は認められていませんでした。
: このころになると、日本の科学技術の水準も世界的なものになり、'''野口英世'''のように国際的な研究者がでてくるようになりました。