「小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代」の版間の差分

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:新政府は、[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#律令制|律令制の仕組み]]を元にした{{ruby|太政官|だじょうかん}}という役所で政治を行い、日本中から広く優秀な人たちを集めましたが、討幕を主導した4藩(薩長土肥)の出身者がその中心を占めていました。このような政治を{{ruby|藩閥|はんばつ}}政治と言います。各藩出身の主な政治家を以下にしめします。
:*薩摩藩 - 西郷隆盛、大久保利通、西郷{{ruby|従道|つぐみち}}、{{ruby|黒田清隆|くろだきよたか}}、{{ruby|松方正義|まつかたまさよし}}
:*長州藩 - 木戸孝允、[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#伊藤博文|{{ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}]]、{{ruby|井上馨|いのうえかおる}}、{{ruby|山縣有朋|やまがたありとも}}
:*土佐藩 - [[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#板垣退助|{{ruby|板垣退助|いたがきたいすけ}}]]、{{ruby|後藤象二郎|ごとうしょうじろう}}
:*肥前藩 - {{ruby|江藤新平|えとうしんぺい}}、{{ruby|副島種臣|そえじまたねおみ}}、[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#大隈重信|{{ruby|大隈重信|おおくましげのぶ}}]]
:江戸幕府が滅びたのちも、徳川家の領地などは、「府」や「県」をおいて新政府がおさめることとなったのですが、そのほかの大名の領地はそのままで、大名が{{ruby|知藩事|ちはんじ}}<ref>名前は、すぐに、「藩知事」と改められます。</ref>と名を変えておさめていました。藩と府県は入り組んでおり行政には非効率でした。また、新政府直轄の府県は合わせても全国の4分の1程度で、新政府は改革の資金を得るのに苦労する一方で、各藩では財政が悪化し、廃藩を願い出るところもありました。
:こうしたことを受け、1871年(明治4年)新政府は幕府だけでなく、藩も廃止し、政府が全国を直接治める形に変えました(<span id="廃藩置県"/>'''{{ruby|廃藩置県|はいはんちけん}}''')<ref name="新政府"/>。また、'''四民平等'''<span id="四民平等"/>をうたって、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#武士と庶民|「名字帯刀」などの武士の特権]]を否定しました。廃藩置県によって、武士の世の中は完全に終わりました。
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::1869年(明治2年)に横浜燈台役所と横浜裁判所の間に電信回線が敷設、1870年1月(明治2年12月<ref>この頃はまだ、[[#暦|暦は変更されていない]]ため、西暦と元号の月が1か月程度ずれます。</ref>)には、東京・横浜間で電信による電報の取り扱いが始まりました。1880年(明治13年)頃には大都市間、1890年(明治23年)頃には全国の県庁所在地が電信でつながりました。
::1871年(明治4年)にはロシアのウラジオストクから長崎へ海底ケーブルが敷設され、シベリア経由でヨーロッパ、さらには大西洋横断電信ケーブルを経て米国とも通信が可能となりました。1873年(明治6年)には東京と長崎間に回線がひかれたので、東京から海外との通信が可能になりました。
:;学校<span id="学校"/>
::1872年(明治5年(1872年12月31日)、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である{{ruby|学制|がくせい}}が出されました。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校<ref>現在の中学校と高等学校にあたります。</ref>・小学校を設置することを計画し、身分や性別に区別なく、国民全てが学校教育を受けられることを目指しました。
::高等教育においても、1877年(明治10年)、もともと、徳川幕府が近代化政策のために設置し、明治政府が引き継いだ開成学校と東京医学校を統合し、近代的な総合大学である'''東京大学'''<ref name="大学">東京大学は帝国大学・東京帝国大学をへて、現在の東京大学となります。1897年に京都帝国大学が設立されるまで、原則として「学位(大学教育を修了したという国際的な証明)」を授与できる唯一の大学でした。その例外として、札幌農学校においては、農学に関する学位が授与できるというものでした。</ref>が発足します。また、開拓に力を入れた北海道には、1876年(明治9年)に農業技術に関して大学に相当する<span id="札幌農学校">'''札幌農学校'''<ref name="大学"/>を設立しています。そこでは、[[#お雇い外国人|多くの外国人が雇われ]]、欧米の進んだ科学技術を、若者たちに教えました。<span id="クラーク博士">開拓当時の北海道札幌農学校で農業を指導したウィリアム・クラーク<ref>クラーク博士として知られ、「少年よ大志を抱け」という言葉で有名です。</ref>などが有名です。
::高等教育は、民間においても、1868年(慶応4年)[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#福澤諭吉|{{ruby|福沢諭吉|ふくざわゆきち}}]]が政府にさきがけて近代的な高等教育の場である'''慶應義塾'''を設立し、それ以後、1875年(明治8年){{ruby|新島襄|にいじまゆずる}}が'''同志社'''英学校、1882年(明治15年)[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#大隈重信|{{ruby|大隈重信|おおくましげのぶ}}]]が'''東京専門学校'''を設立するなどして、官学とはやや異なった見方から、新しい社会へ人材を送り出していきました。
:;暦<span id="暦"/>
::明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、翌日を明治6年(1873年)1月1日として欧米諸国で用いている太陽暦(グレゴリオ暦)にしました。それまで使っていた暦は、今は「{{ruby|旧暦|きゅうれき}}」と呼ばれています。
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;北海道
:ヨーロッパの一国であるロシアは、17世紀東に兵を進め、ユーラシア大陸北部のシベリアを領土としました。シベリアは、ロシアの中心部からは遠く、また、農業に適していない土地だったので、開発はなかなか進みませんでしたが、18世紀後半あたりからロシア船舶の航海がさかんになり、日本人としばしば接触するようになりました。その頃から日本でも、北海道沿岸でとれるニシンなどを肥料に用いるようになり、北海道でも農業に代えた経済的な価値が発見され、本土からの商人の行き来がさかんになってきます。例えば、{{ruby|函館|はこだて}}市は、そのような商人が江戸時代に開いた街です。また、太平洋側まで領土を広げ、さらに、南下しようとするロシアに対抗して、幕府はこの地域の調査を始めます。{{ruby|間宮林蔵|まみやりんぞう}}は{{ruby|樺太島|からふととう}}(サハリン)を調査し、それが島であることを発見しました<ref>樺太の領有はロシアとの間で争われていて、大陸の一部であると、日本の領有は認めにくいものでした。</ref>。幕末、開国に合わせ箱館(函館)に箱館奉行がおかれています。
:明治になって、政府は北海道をロシアに近く、また、未開発の土地などが豊富にある<ref>北海道が江戸時代初めには認知されていながら、開発が全く進んでいなかったのは、石高制などの基本である稲作に適していなかったからです。明治初期においても、北海道での稲作は難しいものでした。しかし、食生活の変化や鉄道・汽船といった輸送設備が整備されることで、商品作物としてじゃがいも・たまねぎ・小麦・てん菜・ホップ・トウモロコシ・リンゴなどが農業生産の対象となり、また、西洋食の習慣や毛織物が浸透してくると牧畜も成立し、北海道の広大な土地は農業の地として魅力的なものになりました。明治政府は、海外から農業技術の指導者を招くなどして、農業創業・農地開拓を推進しました。なお、稲作については、その後の地道な品種改良などの努力によって、現在では、都道府県別のコメの収穫高で、新潟県と1位2位を争う生産地域となっています。</ref>重要な土地と考え、<span id="開拓使">'''{{ruby|開拓使|かいたくし}}'''(通称:北海道開拓使)をおいて北海道の開拓を進めます。北海道には、兵士として警備・防衛につきつつ普段は農業をいとなむ{{ruby|屯田兵|とんでんへい}}がおかれました。また、戊辰戦争で敗北した藩からの移住なども見られました。明治政府も、{{ruby|札幌|さっぽろ}}・{{ruby|小樽|おたる}}など都市の建設、[[#北海道鉄道|鉄道の導入]]、学校([[#クラーク博士|札幌農学校(|札幌農学校)]])や[[#ビール工場|工場]]の建設などについて、本土に優先して予算を配分した例も少なくありません。
;沖縄
:[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#琉球王国|沖縄は琉球王国がおさめる国]]でしたが、薩摩藩が強い力を持って支配し、同時に清国に朝貢を行う国、つまり、清国の属国でもありました。
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:開国に伴って、キリスト教の宣教師も来日するようになりました。江戸幕府は禁教令をそのままにして、日本人がキリスト教徒になる事を禁じていました。明治政府も最初はそれを引き継ぎましたが、外国人達の強い抗議があって1873年(明治6年)以降、キリスト教を含めた宗教の布教や信者になることについて一切の制限がなくなりました。
:一方で、仏教寺院は、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#寺請制度|寺請制度]]で住民の役所の役割も果たしていましたが、[[#戸籍制度|戸籍制度]]がこれに代わったため、住民との公的なつながりは無くなりました。さらに、新政府ができた当時は、尊皇攘夷思想の影響から神道が重要視され<ref>江戸時代までは、神道は仏教の一部(神仏習合)の考えが有力で、僧が神官を兼ねていたり、大きな神社には神宮寺といった寺が併設されたりしていました。明治政府は、これを仏教と神道に分け寺か神社のいずれかにするよう命じました(神仏分離)。このため多くの寺が、神社となりました。</ref>、また、仏教は古臭い伝統であるとの意識から、多くの寺が壊されたりものが持ち出されたりしました({{ruby|廃仏毀釈|はいぶつきしゃく}})。
:学校制度の定着は、{{ruby|識字率|しきじりつ}}(文字を読める能力)を高めることになり、また、欧米から伝わった'''活版印刷'''によって、新聞や出版物が大量で安価に人々の元に届くようになります。このことで、欧米の新しい思想が普及するようになることの他に、小説などの文学が娯楽として定着するようになりました<ref>言葉づかいも、日本で共通のものになるよう、工夫が進められてもいます。</ref>。
:また、演劇の世界では、歌舞伎のように男性だけが舞台に立てるという制限がなくなり、女性も同様に舞台に立つという新劇が生まれました。
;社会思想<span id="社会思想"/>
:身分制をなくしたので、生まれた家に関わらず、個人の努力によって政治をはじめとする社会のあらゆる分野にかかわることができるようになりました。このような社会にあった「自由」や「平等」など「権利」「人権」といった欧米の考え方が'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#福諭吉|{{ruby|福沢諭吉|ふくざわゆきち}}]]'''などにより紹介されました。
:福沢諭吉は、著書『学問のすすめ』の中で「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と、生まれながらの平等を説いて、努力次第で社会の重要な地位に就くことができること(立身出世)を主張しました。これらの考えは、[[#学校|学校教育制度の整備]]や新聞や出版物の普及もあわせて、だんだん社会に浸透し、努力をすることで社会的立場を向上さすることができることが理解されるのと同時に社会のさまざまな層から社会参加を求める声が上がってきました。
 
== 脚注 ==