「小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代」の版間の差分

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:::<span id="北海道鉄道"/>明治10年代は、西南戦争の影響もあり、政府は資金不足で鉄道建設の進みは遅くなりましたが、徐々に路線は伸びてゆき、1889年(明治22年)、東京大阪間を結ぶ東海道本線が開通しました。
::;市街地の交通
[[ファイル:JapaneseRickshaw.jpg|サムネイル|人力車(1897年)]]
:::東京など市街地では、1870年(明治3年)発明された人力車が、{{ruby|駕籠|かご}}に代わって、人々の近距離の移動の手段となりました。人力車が普及するためには道途が整備される必要があります。
:::東京など市街地では、1870年(明治3年)発明された'''人力車'''が、{{ruby|駕籠|かご}}に代わって、人々の近距離の移動の手段となりました。人力車が普及するためには、市街地においても道路が整備される<ref>いわゆる{{ruby|舗装|ほそう}}です。現在のようにコンクリートやアスファルトをつかったものばかりではありませんが、でこぼこ道を平らにならし、つき固める必要もありましたし、雨が降って水がたまったり泥だらけのぬかるみにならないようにしなければなりませんでした。また、人力車などがすれちがえるように幅を確保する必要もありました</ref>必要があります。
:::また、1882年(明治15年)道路にレールを引いて、その上を走る'''鉄道馬車'''が運行を開始し市内大量輸送交通のさきがけとなります。
::;海運
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:;学校<span id="学校"/>
::1872年(明治5年)、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である{{ruby|学制|がくせい}}が出されました。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校<ref>現在の中学校と高等学校にあたります。</ref>・小学校を設置することを計画し、身分や性別に区別なく、国民全てが学校教育を受けられることを目指しました。
::高等教育においても、1877年(明治10年)、もともと、徳川幕府が近代化政策のために設置し、明治政府が引き継いだ開成学校と東京医学校を統合し、近代的な総合大学である'''東京大学'''<ref name="大学">東京大学は帝国大学・東京帝国大学をへて、現在の東京大学となります。1897年に京都帝国大学が設立されるまで、原則として「学位(大学教育を修了したという国際的な証明)」を授与できる唯一の大学でした。その例外として、札幌農学校においては、農学に関する学位が授与できるというものでした。</ref>が発足します。また、開拓に力を入れた北海道には、1876年(明治9年)に農業技術に関して大学に相当する<span id="札幌農学校">'''札幌農学校'''<ref name="大学"/>を設立しています<ref>札幌農学校は、現在の北海道大学の母体となります。</ref>。そこでは、[[#お雇い外国人|多くの外国人が雇われ]]、欧米の進んだ科学技術を、若者たちに教えました。札幌農学校で農業を指導したウィリアム・クラーク<ref>クラーク博士として知られ、「少年よ大志を抱け」という言葉で有名です。</ref>などが有名です。
::高等教育は、民間においても、1868年(慶応4年)[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#福澤諭吉|{{ruby|福沢諭吉|ふくざわゆきち}}]]が政府にさきがけて近代的な高等教育の場である'''慶應義塾'''<ref>のちの慶應義塾大学。</ref>を設立し、それ以後、1875年(明治8年){{ruby|新島襄|にいじまゆずるじょう}}が'''同志社'''英学校<ref>のちの同志社大学。</ref>、1882年(明治15年)[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#大隈重信|{{ruby|大隈重信|おおくましげのぶ}}]]が'''東京専門学校'''<ref>のちの早稲田大学。</ref>を設立するなどして、官学とはやや異なった見方から、新しい社会へ人材を送り出していきました。
:;暦<span id="暦"/>
::明治5年12月2日(1872年12月31日)をもって太陰太陽暦(天保暦)を廃止し、翌日を明治6年(1873年)1月1日として欧米諸国で用いている太陽暦(グレゴリオ暦)にしました。それまで使っていた暦は、今は「{{ruby|旧暦|きゅうれき}}」と呼ばれています。