「小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代」の版間の差分

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[[file:Itō Hirobumi.jpg|thumb|125px|伊藤博文]]
:明治になって、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#四民平等|身分制度がなくなり]]<ref name="華族">実際は、公家や大名、明治政府に大きな貢献のあった人たちについては、{{ruby|公爵|こうしゃく}}・{{ruby|侯|こう}}爵・{{ruby|伯|はく}}爵・{{ruby|子|し}}爵・{{ruby|男|だん}}爵といった貴族の爵位が与えられ、その一族は「{{ruby|華族|かぞく}}」と呼ばれました。華族には、いくつかの特権が認められましたが、華族の数は比較的少ないうえ、江戸時代ほど極端に大きな差ではありませんでしたし、社会的な貢献をすることで、誰でも華族となる機会はありました。また、「士族」と「平民」の間で異なる取り扱いは一切ありませんでした。</ref>、人々は才覚や努力によって、どのような職業に就くこともできるようになりました。人々は、学業をはじめとしたさまざまな努力をして、いろいろな分野で活躍するようになりました。
:明治政府は、さまざまな改革を強引に進めたため民衆と対立することも少なくありませんでした。このような民衆の不満は、[[#士族の反乱|士族の反乱]]の後は、こうした近代思想を取り入れて政治参加を求める{{ruby|自由民権|じゆうみんけん}}運動につながります。自由民権運動は、憲法の制定と、民衆が政治に参加できる選挙を通じた国会の開設をもとめるようになります。自由民権運動は、征韓論で下野した'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#板垣退助|{{ruby|板垣退助|いたがきたいすけ}}]]'''と1881年(明治14年)に'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#伊藤博文|{{ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}]]'''らと対立して政府を離れた'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#大隈重信|{{ruby|大隈重信|おおくましげのぶ}}]]'''らに主導されました。
:大隈や板垣が主導する自由民権運動の主張は、国民の自由と権利を保障する憲法の制定とそれに基づく国民の選挙による議会(民選議会)の開設及び議会による政府の統制でした。伊藤博文ら明治政府を主導する人たちは、自由民権運動の考えをそのまま受け入れると、政策を政府が思うとおりに進めることができず、富国強兵などの改革政策に差しさわりがあると考え、この運動を弾圧しました。一方で各地の有力者や、新たな産業の成功者が登場してきており、明治政府はこれらの人々の支持を受けたいと思っていました。また、欧米諸国から見ると、民選議会が政治を進めない国は遅れているとの意識があり、不平等条約改正にあたっても説得させることができない理由の一つとなっていました。
:1881年(明治14年)明治政府は、明治天皇名で「国会開設の勅諭」を下し、1889年(明治22年)に国会を開設することを国民に約束しました。これを受けて、自由民権運動の活動家は政党を結成し、同年には自由党が板垣退助を中心として、翌1882年(明治15年)立憲改進党が大隈重信らによって結成されました。