「小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代」の版間の差分

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==== 執権政治 ====
:1199年、頼朝は亡くなり、その後、頼朝の子{{ruby|頼家|よりいえ}}・{{ruby|実朝|さねとも}}兄弟の三代で源氏の将軍家は終わります。実朝のころから、将軍を補佐する'''{{ruby|執権|しっけん}}'''の職にあった'''北条氏'''<ref name="北条氏">北条氏は、頼朝の妻である'''{{ruby|北条政子|ほうじょう まさこ}}'''の実家で、元々関東で有力な武士団の棟梁でした。全てをうばわれて、伊豆に流された頼朝は北条政子と結婚することで、父親である{{ruby|北条時政|ほうじょうときまさ}}や弟の{{ruby|北条義時|ほうじょうよしとき}}の支援を得ることができ、やがて、関東の武家の棟梁とされなることができました。</ref>が武士を取りまとめていて、源氏の将軍がたえた後も、朝廷から名目上の将軍をむかえて、執権が実際の政治を行うようになりました。これを、'''執権政治'''といいます。ちょっと、「摂関政治」ににていますね。
;{{ruby|承久|じょうきゅう}}の乱
:1221年、{{ruby|後鳥羽|ごとば}}上皇は、将軍ではなく執権が実権をにぎる幕府をたおせとの命令を出し軍を東に出しました。
:このとき、頼朝の妻で当時の執権{{ruby|北条義時|ほうじょうよしとき}}の姉でもある{{ruby|北条政子|ほうじょうまさこ}}<ref name="北条氏"/>は、武士たちに、「あなたたちに頼朝があたえたご{{ruby|恩|おん}}は、山よりも高く、海よりも深いものです。その恩にむくいようとするものは、力を合わせて敵軍をうちとり、幕府をまもるでしょう。」と、武士たちによびかけ、武士たちをまとめました。
:多くの御家人の支持は幕府に集まり、北条氏の幕府軍と、上皇方の軍との戦争は、北条氏の側が勝利しました。後鳥羽上皇らは{{ruby|流罪|るざい}}、上皇に味方した武士は処分され、幕府は朝廷側の所領の多くを没収しました。京都には、もともと守護として京都守護がおかれていたのですが、あらためて{{ruby|六波羅探題|ろくはらたんだい}}<span id="六波羅探題"/>がおかれ、京都の日常の警察活動のほか、朝廷の監視、鎌倉から遠い西日本の訴訟などを行ようになりました。