「小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代」の版間の差分

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:また、蒸気機関を動力とした乗り物が開発されました。19世紀の初頭には、蒸気機関を船の動力とした'''蒸気船'''がアメリカ人ロバート・フルトンによって、'''蒸気機関車'''を使った'''鉄道'''<ref>なぜ、「鉄道」だったかを考えてみましょう。車輪をつけた乗り物は、でこぼこ道を走るのは大変ですし、スピードを出せません。でこぼこ道をならして舗装しなければなりませんが、これを、いつも維持しておくのは大変です。そこで、車輪がとおる場所だけ、でこぼこでないようにすればいいと考えたのです。その車輪が通る部分だけ丈夫なもので作っておけば、道全体を常に整備しておく必要はありません。これが、鉄路(レール)の考え方です。この背景には、コークスにより、鉄が安く大量に手に入るようになったことがあります。</ref>がジョージ・スチーブンソンによってイギリスで実用化されました。
:こうして、鉄や、繊維や布といった工業製品を大量に製造し、それを鉄道や蒸気船で大量・安価かつ高速に輸送することが可能になりました。これを、「'''産業革命'''」と言います。産業革命は、イギリスにはじまって、ヨーロッパ各国、大西洋を越えてアメリカでもおこりました<ref>同じ時期に、ヨーロッパやアメリカ大陸では、身分に関係なく人々が国の政治に参加するという、もうひとつの大きな社会変革が起こっていました。この変革については、[[小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代#世界の変化2 - 市民革命|次の章]]でお話しします。</ref>。
:<u><span id="帝国主義"/>欧米各国は、産業革命で経済力が大きくなりましたが、さらにそれを大きくするため、国内で生産する工業製品の{{ruby|市場|しじょう}}と原材料となる農産物や鉱物資源を欧米諸国の外に求めるようになりました。国外の市場や原材料を確保する方法の一つとして、アジアやアフリカの多くの国や地域が、工業化が進んだイギリスやフランスといったヨーロッパの一部の国の植民地となりました。</u>
:例えば、この頃、インドは、イギリスからの安く良質な綿製品が流れ込み、国内の綿工業は衰退する一方で、輸入などにあたっての資金はイギリスから貸し付けられたため、イギリスの影響力が極めて強い状態になっていたところ、1857年の反乱がきっかけとなって、イギリスの植民地となりました。また、中国(清)からは、大量の茶を輸入していたのですが、代わりに清に輸出するものがなく、麻薬であるアヘンを密かに売っていました。そのため、1840年イギリスは清と戦争('''アヘン戦争'''<span id="アヘン戦争"/>)になり、香港を領土としたりしていました。この状況は、日本にも伝わり、一部の人たちはヨーロッパ各国に対して警戒するようになっていました。
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:長州藩と薩摩藩は幕府との関係で敵対することもありましたが、1863年から1864年にかけて、それぞれヨーロッパの艦隊と戦い大きな被害を出すという共通の経験を経て<ref>この時、銃火器の差の大きさが痛感されました。日本では、まだ、安土桃山時代の火縄銃がそのまま使われていましたが、欧米では、射程が長く、命中度も高く、取り扱いが簡単な銃器が大量に存在していました。</ref>、欧米諸国に日本は大きく遅れており、それに追いつくには、西洋諸国との付き合いを避けるという「攘夷」ではなく積極的に外国に学ぶことが必要であると考えるようになりました。そうして、現在の幕府の仕組みではうまくいかないとして、同盟して({{ruby|薩長同盟|さっちょうどうめい}}<ref>これを仲介したのが、{{ruby|坂本龍馬|さかもとりょうま}}と言われています。</ref>)、攘夷から幕府をうちたおすこと({{ruby|倒幕|とうばく}})に方針を変えました。
:[[File:Tokugawa yoshinobu.jpg|thumb|200px|第15代将軍徳川慶喜]]
:開国や通商条約の締結にあたって、幕府がしっかりした方針を示せなかったことは、全国の大名に不安をもたらしました。開国に伴って海外の様子が伝わり、[[#帝国主義|イギリスやフランスが多くの国や地域を植民地にしていったこと]]も知られるようになり、このままでは日本も植民地にされてしまうということも恐れられるようになりました。また、開国に伴って各大名が近代兵器を海外から買い付けたことや、金が海外へ流出したこと<ref>日本には{{ruby|佐渡金山|さどきんざん}}など世界有数の金鉱山があって金を豊富に持っていました。一方で欧米諸国ではメキシコなどで銀が大量に採掘されていて、銀の価値は比較的低いものでした。その結果、日本では金と銀を1:5で交換していたのですが、欧米では1:15で交換していました。そこで、欧米の商人たちは、銀で日本の金を買って持ち出したため、日本から大量の金が国外に流出しました。そして、日本では金の価値が上がり、銀の価値は下がることとなります。銀は幕府の公共事業の報酬などに使われており、庶民もよく手にするものでしたが、その価値が下がり、他方、大名や大商人間の取引や一部の税の支払いは、金で決済されることが多かったのですが、金が上がったため、その調達の費用が増えました。</ref>で、物価が上がって庶民の暮らしは苦しくなり、世の中は騒然としました。このようになっても、幕府は諸大名をまとめられず、効果的な政策を行うこともできなくなっていました。
:このような中、1867年第15代将軍'''{{ruby|徳川慶喜|とくがわよしのぶ}}'''が、征夷大将軍を辞任し('''{{ruby|大政奉還|たいせいほうかん}}''')、260年以上続いた江戸幕府は終わりを告げます。慶喜は、大名が相談して政治を進めることを期待して、慶喜自身もそれに徳川家の代表として参加するつもりでしたが、西郷らは、天皇中心の政府(新政府)を作るために('''{{ruby|王政復古|おうせいふっこ}}''')、翌1868年、江戸幕府をはじめとして、明治政府に従わない大名を従えるため戦争を起こしました('''{{ruby|戊辰戦争|ぼしんせんそう}}''')<ref name="新政府">徳川家は、将軍職と無関係に約400万石の経済力を持っていました。天皇家と全ての公家を合わせても10万石、薩長を合わせても100万石程度なので、徳川家がある限り薩長が主導権を握ることはあり得ませんでした。また、幕藩体制は、徳川幕府が格段に強い権力と財力を持っていたとはいえ、基本的には、大名の連合であって、欧米諸国に追いつくためには、各々の大名が持つ財力を一つの政府にまとめる必要がありました。討幕に加えて、廃藩置県をして、全ての税金が政府に集まり仕組みが作られて初めて、鉄道や官営工場などの投資ができるようになったのです。</ref>。西郷らは、公家の{{ruby|岩倉具視|いわくらともみ}}などを味方につけ、天皇の権威({{ruby|錦|にしき}}の{{ruby|御旗|みはた}})をもって、天皇の軍隊として幕府を攻めました。新政府軍は、薩摩藩及び長州藩を中心として、後に土佐藩<ref>土佐国(現在の高知県)を領有する、山内家を藩主とする藩です。坂本龍馬の出身地でもあります。</ref>や肥前藩(佐賀藩)<ref>肥前国東部(現在の佐賀県)を領有する、鍋島家を藩主とする藩です。</ref>が加わります。長州藩では、武士だけではなく、農民他庶民も軍に加わりました({{ruby|奇兵隊|きへいたい}})。この戦争で中心となった、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩の出身者が、明治政府の中心(「{{ruby|薩長土肥|さっちょうどひ}}」)となります。
:新政府軍は、京都から東に進んで、江戸城を攻めようとしましたが、幕府を代表する'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#勝海舟|{{ruby|勝海舟|かつかいしゅう}}]]'''が、西郷隆盛と交渉して、江戸城は新政府に明け渡されました。その後、東北北越地方の大名との戦いや、函館で旧幕臣らとの戦いがありましたが、新政府軍が勝利し、1869年5月戊辰戦争は終わります。
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:こうしたことを受け、1871年(明治4年)新政府は幕府だけでなく、藩も廃止し、政府が全国を直接治める形に変えました(<span id="廃藩置県"/>'''{{ruby|廃藩置県|はいはんちけん}}''')<ref name="新政府"/>。また、'''四民平等'''<span id="四民平等"/>をうたって、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ#武士と庶民|「名字帯刀」などの武士の特権]]を否定しました。廃藩置県によって、武士の世の中は完全に終わりました。
:「農工商」と言われていた庶民<ref>明治の戸籍においては「家」が単位となりました。戸籍に、もともと武士であった「家」は、「士族」とされ、その他、「農工商」の庶民の「家」は「平民」と書かれました。</ref>も、等しく姓をなのることができるようになり、同年制定の戸籍法に基づいて翌1872年(明治5年)近代的な戸籍<span id="戸籍制度"/>に記録されました。
:新政府は、{{ruby|富[[#帝強兵主義|ふこくきょうへい}}<ref>経済を発展させて軍事力の増強をはかる。そうしさせなければ欧米諸国の植民地となる]]という危機感があり'''{{ruby|富国強兵|ふこくきょうへい}}'''を国の目標とた。</ref>・て、'''{{ruby|殖産興業|しょくさんこうぎょう}}'''<ref>経済を発展させるため、西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義の育成により国家の近代化を推進する。</ref>をスローガンとして、法律・裁判・軍隊・警察・経済・金融・税制・工業・鉄道・海運・郵便・電信・学校・暦など数多い分野で、欧米を模範にした改革を行いました。
:[[File:Iwakura mission.jpg|thumb|280px|left|遣欧使節団<br/>左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通]]<span id="使節団"/>
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:;<span id="殖産興業"/>経済・金融
::江戸時代には、貨幣を使って経済を回す仕組み({{ruby|貨幣経済|かへいけいざい}}<span id="貨幣経済"/>)はできあがっていましたが経済の中心はやはり米であり、また、貨幣も、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#江戸時代の文化#両替商|金(小判、分金)・銀(板銀、分銀)・銭(寛永通宝 など)がばらばらに流通する複雑な仕組み]]でした。この頃の欧米諸国は、お金の価値を{{ruby|金|きん}}の価値とする仕組み({{ruby|金本位制|きんほんいせい}})となって、単純で明確なお金の流れが確立し、経済の流れに勢いをつけていました。日本も1871年(明治4年)、新貨条例を制定し、通貨単位を「両」から「圓(円)」に切り替えて本位貨幣を金貨とし、金本位制度を採用することにしました。
::金貨は重量があり、また、そのまま流通させると、傷がついたりしてすり減るおそれがあります。そこで、金貨を預かって代わりに紙の「預かり証」を発行する工夫がなされました。「預かり証」は、預けているところに持っていけば金貨と代えてもらえるので、金貨と同じようにお金として利用できます。この金貨を預かるところが「{{ruby|銀行|ぎんこう}}」です。そして、預かり証が「{{ruby|紙幣|しへい}}」です。銀行は、預かるため安全な金庫を持っていますから、金貨だけではなく、すぐには使わない紙幣も預かるようになります。預かって金庫の中にしまっておいても、預けていた人が大勢いればすぐ預けていた人が一斉に全部引き出すことはめったに起こりませんから、預かっているお金を貸し付けに使ったりできます。こうして銀行の仕組みができて、新しい事業を起こす元手を得る方法が新たに加わりました。
::1872年(明治5年)このような役割を果たす銀行についての国立銀行条例を政府は制定しました。そして、翌1872年(明治5年)、国立銀行条例の制定にかかわった'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#渋沢栄一|{{ruby|渋沢栄一|しぶさわえいいち}}]]'''が日本最初の銀行である第一国立銀行を設立しました。また、渋沢は、第一国立銀行を、多くの人から資金を集める{{ruby|株式会社|かぶしきがいしゃ}}の仕組みを日本で初めて使って設立しました。
:;税制
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:1874年(明治7年)に江藤が故郷の佐賀県でおしたてられて反乱をおこしましたが(佐賀の乱)、政府によって鎮圧されました。
:続いて、1876年(明治9年)には熊本県で{{ruby|神風連|じんぷうれん}}の乱、それを受けるように福岡県で{{ruby|秋月|あきづき}}藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱、10月には山口県で{{ruby|前原一誠|まえばらいっせい}}らによる{{ruby|萩|はぎ}}の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧されました。
[[File:Battle of Tabaruzaka Nishiki-e.jpg|thumb|350px|西南戦争で最も激しい戦いとされる田原坂の戦いを描いた錦絵]]
:これらの反乱は、すべて、倒幕の中心またはそれに協力した藩の士族によるものです。
:そして、1877年(明治10年)には旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将にして、日本国内では歴史上最大規模の内戦となる'''{{ruby|西南戦争|せいなんせんそう}}'''が勃発しました。西郷等の軍は北上して、[[#鎮台|鎮台]]のおかれていた熊本を攻めますが、鎮台の兵士が熊本城にこもり、西郷軍の足止めをしているうちに、大久保利通が主導する政府は東京や大阪から大量の兵士を移動させ{{ruby|田原坂|たばるざか}}の戦いで西郷軍を打ち負かします。残った西郷軍は南九州各地を転々とし、最後に、西郷隆盛が鹿児島の城山で自決して、西南戦争は鎮圧されます。なお、この翌年、大久保利通は不平士族に暗殺されました。
:薩摩藩は、江戸時代から武を尊ぶことで有名で、戊辰戦争でも活躍し、日本最強と言われていたところ、多くは元々武士ではなかった兵士の政府軍に圧倒的に敗北したのですから、これ以後、政府に対する不満は、武力に訴えるものではなく、{{ruby|自由民権|じゆうみんけん}}運動など政治活動によるものとなっていきます。