「中学受験社会/歴史/下巻」の版間の差分

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椎楽 (トーク | 投稿記録)
→‎大日本帝国憲法の成立: 前から気になっていたところをチェック。おそらく『大学の日本史4 近代』(山川出版社)pp.99-100が元ネタだが、これを見ると手放しの賛嘆ではない。かといって、そこまで突っ込んだのを小学生に求めるのもどうか。というわけで削除。
椎楽 (トーク | 投稿記録)
→‎中国との戦争: 多すぎる写真(リントンの肖像画とか石原莞爾の写真とか興味ある人だけ見ればいいでしょ)や拡大文字タグの削除。
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中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に満州国(まんしゅうこく)が建国されます。
 
==== 満州事変にいたるまでの、いきさつ ====
[[File:Zhang Zuolin3.jpg|thumb|殺された、張作霖(ちょう さくりん)]]
中国では、辛亥革命のあと、各地で、「自分こそが中華民国の正当な支配者である」と主張する多くの軍閥が、おたがいに、あらそっていた。
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満州現地の日本軍の関東軍(かんとうぐん)は、軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようと考えた。
 
[[ファイル:Kanji Ishiwara2.JPG|thumb|200px|left|石原莞爾(いしはら かんじ)]]
[[File:Puyi-Manchukuo.jpg|thumb|right|200px|溥儀(ふぎ)]]
 
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==== リットン調査団 ====
[[File:Lytton Commission in Shanghai.jpg|thumb|left|300px|中華民国の上海に到着(とうちゃく)したリットン調査団]]
[[File:Lytton Commission at railway.jpg|thumb|300px|柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団。]]
 
[[ファイル:2ndEarlOfLytton.jpg|thumb|300px|リットン。第2代リットン伯爵(リットンはくしゃく)、ヴィクター・ブルワー=リットン Victor Bulwer-Lytton]]
中国政府は、日本の満州での行動は不法である、と国際連盟にうったえた。そして、国際連盟による調査がおこなわれることになったので、イギリス人の リットン を委員長とする調査団の <big>'''リットン調査団</big>'''(リットンちょうさだん、英:Lytton Commission) が満州におくられた。
 
そして、リットン調査団は、日本と中国の両国がうけいれられるようにと、日本の権益をまもるための警備行動をみとめつつ、中国の領土として満州を自治共和国にするという、日中両国に気を使った提案(ていあん)をした。
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=== 日中戦争 ===
1937年7月、北京(ペキン)にある盧溝橋(ろこうきょう)という地区で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれ、戦闘になりました。この事件を<big>'''盧溝橋事件</big>'''(ろこうきょう じけん)といいます。
 
そして、これを口実に日本は軍をさらに送り、事実上の戦争になりましたが、当時は「北支事変」(後に{{ruby|支那|しな}}<ref>当時、日本は中国のことをこのように呼んでいました。'''現在は中国をけいべつするために使う言葉とされているので使用しません'''。</ref>事変)と呼びました。もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいたのです(中国側も同様の理由で「事変」という語を用いませんでした)。この戦闘をもって、<big>'''日中戦争</big>'''(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もあります。
 
なぜ盧溝橋に日本軍がいたかというと、義和団の乱の事後処理について1901年にむすばれた北京議定書に基づいて、日本軍などの外国軍が、この盧溝橋の周辺に駐留(ちゅうりゅう)していた。
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その後、上海でも戦闘が始まり、日本と中国とは全面的な戦争に入っていきます。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略しました。(おそらく日本は首都の南京をおとせば蒋介石が降伏するだろう、と考えたのだろう。)国民党の支配者の蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は、つづいた。
 
南京攻略のとき、日本軍が中国の民間人や捕虜を多数殺害しました。これは1937年12月から1938年初めごろまでの事件を <big>'''南京事件</big>'''(ナンキンじけん)<ref>南京{{ruby|虐殺|ぎゃくさつ}}事件ともいいます。被害にあった規模は様々な研究があります。この事件は1938年初めごろには欧米のマスコミで報道され、日本軍にたいする非難が高まりました。当時の日本のマスコミは軍によってコントロールされていたため、報道されることはなく、大多数の日本人は戦後にこの事件について知りました。</ref>といいます。
 
この日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していた。アメリカは、おもに中国の国民党を援助した。アメリカは援助にとどまり、まだ、戦闘には参加していない。
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==== 日本の戦時体制 ====
日本政府は、1938年には、国会の手続きがなくても戦争に必要な物資や人が動かせるように、<big>'''国家総動員法</big>'''(こっか そうどういんほう)を定めた。
 
戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは<big>'''配給制</big>'''(はいきゅうせい)になった。
 
「ほしがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵(てき)だ」とか「石油の一滴、血の一滴」とか「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」とかの標語が、戦時下の日本では言われた。