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== 江戸時代 ==
===[[w:徳川家康|{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}]]===
[[File:Tokugawa_Ieyasu2.JPG|thumb|250px|徳川家康]]
江戸幕府初代将軍 信長が亡くなった8年後、関東に領地を移した、10年後関ケ原の戦いで勝ち征夷大将軍に任命され江戸幕府を開いた。豊臣氏を滅ぼした翌年に亡くなった。日光東照宮にまつられている。
:1543年、{{Ruby|三河|みかわ}}(現在の愛知県東部)の大名{{Ruby|松平|まつだいら}}氏に生まれます。松平氏は三河の国人出身の大名でしたが、隣接する{{ruby|今川|いまがわ}}氏や織田氏に比べると弱小な大名でした。家康は家を継ぐ前、{{Ruby|松平元康|まつだいらもとやす}}と言って、今川氏に人質に出されていたことがあります。
:1560年[[#桶狭間の戦い|{{ruby|桶狭間|おけはざま}}の戦い]]で[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#今川義元|今川義元]]が討ち死にし、今川氏が弱くなると、[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#織田信長|信長]]と同盟し三河をとりもどします。そして、名を{{ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}とかえ、{{Ruby|遠江|とおとおみ}}をせめとります。その後、信長の同盟国として武田氏や北条氏と隣接する信長の勢力の東南部を守り続けます。
:1572年の[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#三方原の戦い|{{ruby|三方原|みかたがはら}}の戦い]]では大敗し、命の危険もありましたが、[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#武田信玄|武田信玄]]が病死し、兵は甲斐へもどったため一命をとりとめました。
:逆に、1575年の[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#長篠の戦い|長篠の戦い]]では、信長との連合軍で、{{ruby|武田勝頼|たけだかつより}}に大勝し{{Ruby|駿河|するが}}をえ、1582年武田氏をほろぼして{{Ruby|甲斐|かい}}と{{Ruby|信濃|しなの}}の一部をえました。
:秀吉には、後継者争いで一時抵抗し、秀吉の軍をくだすなどしたのですが、和解し、その後はしたがいます。
:1590年、秀吉の[[小学校社会/6学年/歴史編/戦乱の世の中と日本の統一-戦国時代・安土桃山時代#小田原攻め|小田原攻め]]に協力し北条氏を攻め滅ぼしますが、秀吉の命令によって、領地を北条氏のおさめていた関東に移され、{{Ruby|江戸|えど}}城を{{Ruby|拠城|きょじょう}}としました。
:秀吉の生前は、秀吉配下では最大の大名となっており、秀吉政権においては五大老の筆頭でした。
:秀吉の死後、1600年、[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代#関ヶ原の戦い|関ヶ原の戦い]]に勝利して政権を握ります。
:1603年、{{Ruby|朝廷|ちょうてい}}から [[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#将軍|{{Ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}}]]に任命され、江戸の幕府を開きます。
:1614年から翌年に「大坂の陣」を起こして豊臣氏を滅ぼしたのち、1616年亡くなりました。「東照大権現」として、日光東照宮などにまつられています。
 
=== [[w:徳川家光|{{ruby|徳川家光|とくがわいえみつ}}]] ===