「ゲームプログラミング/バランス調整」の版間の差分

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===技能の習得としてのゲーム===
====ゲームをプレイしていることで、プレイヤーは何を知って、何を身につけているか?====
==== バランスを通じた教育 ====
まあゲームをしていることで、プレイヤーは何らかの行為、練習を繰り返して、技能様の物を身につけていく、と、考えても、いい? まあいいか、とりあえずはそう見なしましょう。
バランス調整を成功させるための対策はいくつかあります。一つ例を挙げると、プレイヤーに習得してもらうプレイ技法をある程度想定しておくことです。
 
ですからそこでプレイヤーがそういうプレイ身に着ける習得想定ておくと実践できるよう上手なったら、敵キャを簡単に倒せンス調整が出来ようにするのが良でしょう。
 
すじにく大先生が愛読している文献『ゲームプランナー集中講座』(吉沢秀雄 著)ニュアンスはやや違いますが「教育的難易度」という用語を使っています<ref>吉沢秀雄『ゲームプランナー入門講座』SBクリエイティブ、2015年12月29日 初版 第1刷発行、225ページ</ref>。まあゲーム関係者で教育について分かってる奴なんて、ほとんどいないだろうけど…
 
:※ ただし、こで文献でいう「教育難易度とは、むしろ大先生の意図とは逆で、ある敵を攻略するのにプレイヤーがなんらかの操作が必求する敵はな時、まず1個だけのその敵の撃破用の操作技能だけをプレイヤーが修得できれば攻略できるようにしろという意味です。なので本wikiでつまり、プレイヤーが技能を覚えやす「教育的視点」とはニュアンスが若干(じゃっかん)難易度を下げろとますう事でしょう
 
前編集者は本質的キチガイなので、とにかく世の中で自分が偉いことが何より大事なので「教育いう言葉を使いましが、プレイヤー視点い。一方は「学習」です。文脈は違いますが参考文献『ゲームプランデザインの教科書』では似たようなことを語る時に学習という言葉を用い使っていまする文献もある<ref>『ゲームプランとデザインの教科書』、P.61 </ref>。要するにこの本の筆者の方が、E.Suj. よりまともな人間だという事でしょう
 
ただ、プレイヤーの技能の習得という視点は、バランス調整の時に一番重要になるという。確かにゲームは技能や知恵、解決のための何らかの手段、鍛錬も必要だが、一方では間違いなく娯楽で、面白いものであるはずだ。
ただし、このように教育的な視点が有効な場面は、あくまでバランス調整だけでしょう。企画などのアイデア出しは、教育的視点ではなく、もっと大衆娯楽エンタメ視点で行うのが定石です。(なお一般的に、ゲーム業界にかぎらず企画手法の定石として、面白い事どうしの組み合わせ、というのがあります。)
 
また、少なくない多くのプレイヤーたちが、そしてゲームを通じてすることで、の思考力が磨かれて成長したかのよとい味わうのが好きだと持つプレイヤーも多統計・アンケート結果があります<ref>[https://www.teu.ac.jp/ap_page/koukai/2019_03_3endo.pdf [[w:遠藤雅伸]] 『ゲーム道に通じるユーザ66ペジ</ref>、全くそ気持ちを否定す意図はなが、でもねー、ゲームデザインへっていう応用』66ページ、3.3.3. 面白さに関する考察 ]</ref>。は結局遊びなんだよ?
 
ゲーミフィケーションなんて言葉を使っていい気になっている連中もいるようだけど、まあその概念や運動がまったく意味を持たないとは言わないが、でもやっぱりゲームは娯楽であり遊びであり、ある程度堕落した、ある程度常識的な硬い世界からは非難される要素があるもので、あまり理屈を並べて自分たちの世界が高級なものだと主張しない方がいいんじゃあない?
 
{{コラム|ゲーミフィケーション|
なお、コンピュータ的なゲーム産業と、教育との関係性にすでに気付いて注目しているゲーム作家もいます。ナムコ出身の岸本好弘がそうです。また、学問的にも、ゲーム設計技術の教育への応用として『ゲーミフィケーション』などと言う概念が提唱されています。
どうもゲーム業界の連中が、自分たちの仕事を美化して、正当化したいため、ゲーミフィケーションがどうの、なんて言いだしたようだよ<ref>https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/190731a</ref>。
 
2019年にゲーミフィケーション学会設立。もっともこの運動や概念がまったく意味がないものだとは、現編集者も言わない。確かにゲーム的な行為を、もう少し遊びから離れて、現実の有用な出来事に結び付けようというのは、それほど間違っていないし、意義はある。
ゲームフィケーションに関する説明は長くなるのでコラム化します。
{{コラム|ゲーミフィケーションに関すること|
野球ゲームの『ファミスタ』シリーズで有名なナムコ出身の岸本好弘などが、ゲーミフィケーションをゲーム作家の立場から推奨している。<ref>[https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/190731a ファミスタの父が「日本ゲーミフィケーション協会」発足──ゲームの力で世の中はもっと面白くなる
2019年7月31日 14:41 公開]</ref>
 
2013年ごろからすでに、企業の新人研修で、ゲームの要素を取り入れた研修などがされていたようだ。
2019年に岸本がゲーミフィケーション学会を設立したが、なにもこの時点で概念が産まれたわけではなく、既に2013年あたりの時代には、たとえばテレビの夜中の経済ニュース番組などで、ゲーミフィケーションを企業の新人研修に応用する事例などが報道されていた亊もある(ただし、これに岸本氏が関わっているかは知らない)。
 
岸本好弘(ファミスタの父、と呼ばれているらしい)のうに「ゲームの本質っていうのは、人間が頭で想像することの素晴らしさ」である<ref>[https://www.fantasy.co.jp/edutainment/article/interview16 『“遊び”</ref>ってこ“学び”らしいけど、なんか軽い言葉だね。想像に意義があるが、それたく同じ!?てほんとに頭でするもの?
ゲームと教育の専門家二人が語るゲーミフィケーション教育(前編)』 2021.07.08 UP] </ref>。
 
40年前(※1980頃?)、
岸本が言うには、今から40年前(※1980頃 ?)を振り返り、すでにゲームセンター用のアーケードゲーム業界では、
:「そのころアーケードゲームのデザインで言われていたのは、初めてそのゲームに挑戦したプレイヤーでも3分間程度は遊べるようにすること。「もう一度チャレンジしたら、先に進めそうだ!」と、プレイヤーの気持ちが動くように制作すること」
ってことだけど、そうすれば子供が100円玉いっぱい入れて、お前らが儲かるってだけだろ?
 
:「これって、現在IT業界で言われるUX、ユーザーエクスペリエンスですよね。ゲーム業界では理論化、言語化していなかったけれど、40年前から現代に通じることをやっていたんだなと思いました。」
何かそれらしい言葉だけ踊ってかっこつけてるようにしか聞こえん^^;;;。
と言われている<ref>[https://www.fantasy.co.jp/edutainment/article/interview16 『“遊び”と“学び”はまったく同じ!?
ゲームと教育の専門家二人が語るゲーミフィケーション教育(前編)』 藤本 徹氏・岸本 好弘氏, 2021.07.08 UP] </ref>。
 
:「ゲームって全部「そそのかし」なんです。ゲームをプレイしていて、Aの洞窟に行きなさいとか、Bの洞窟には行くなとは言われないですよね。プレイヤーが2つの洞窟をぱっと見たときに「こっちの洞窟に宝があるかも!」って見えるように作っているんです。これを「そそのかし」って言うんです。」
まあそれはそれでいいけど、それってそんなに大したことかね?
 
: (抜粋)「先生は答えを教えるのではなく、生徒が自分で「わかった!」、「僕が一人で気が付いた!」と思わせることが大切。」
岸本「ゲームって全部「そそのかし」なんです。ゲームをプレイしていて、Aの洞窟に行きなさいとか、Bの洞窟には行くなとは言われないですよね。プレイヤーが2つの洞窟をぱっと見たときに「こっちの洞窟に宝があるかも!」って見えるように作っているんです。これを「そそのかし」って言うんです。間違っても、ストレートに「Aの洞窟に宝物があるなどという看板を立ててはいけません(笑)。」
思わせるっていうのがすごいし、傲慢だよな。お前は神か?
 
: 「ゲームをデザインするのも授業をデザインするのも同じです。楽しいと思うことやワクワクすることは脳の働きを最大限にする。だから、つらいことを我慢するのはよくない。脳が楽しいと感じることがとても大切なんです。」
(抜粋)「先生は答えを教えるのではなく、生徒が自分で「わかった!」、「僕が一人で気が付いた!」と思わせることが大切。」
お前みたいな奴って、すぐ脳がどうのって言うよな。まあ楽しいことやワクワクするのが大事なのは認めるが、人生つらいことを我慢しなければいけない時なんてしょっちゅうだよ。後ゲームと授業は別物にしろ、一緒にするな。
 
しかし思うんだけど、ゲーム業界の奴らって、自分たちの仕事に少しやましさがあるから、教育と結び付けて、高級なものに仕立て上げたいんじゃあないの?
「ゲームをデザインするのも授業をデザインするのも同じです。楽しいと思うことやワクワクすることは脳の働きを最大限にする。だから、つらいことを我慢するのはよくない。脳が楽しいと感じることがとても大切なんです。」<ref>[https://www.fantasy.co.jp/edutainment/article/interview17 『“遊び”と“学び”はまったく同じ!?
ゲームと教育の専門家二人が語るゲーミフィケーション教育(後編)』藤本 徹氏・岸本 好弘氏, 2021.07.15 UP] </ref>
 
まあゲーム的な教育っていうのはありだが、やはりゲームの本質は遊びで娯楽で、しかも堕落だよ。
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{{コラム|すじ肉しちゅ~は今日も右手を上げて、「ハイル、オタキング!!!」と言った。|
必ずしも現代のゲームが上述のように教育的配慮にもとづいて設計してもヒットするかは不明である。21世紀の現代と20世紀のファミコン黎明期とでは消費者ニーズも違っているから、もしかしたら今後は教育的配慮ある作品が全く売れないのかもしれない。
1990年代後半に、オタキング岡田斗司夫は、著書『世紀の大怪獣!!オカダ―岡田斗司夫のお蔵出し 』(おそらく)で、マリオカートを例に、市販のゲームソフトの多くは達成感を味合わせるものだと指摘した。
 
岡田に言わせれば、ゲーム文化以前の人生の趣味の多くは、必ずしも努力の量と、上達とが比例しない。スポーツ、絵画、しかしこれほんと?もちろん厳密に量を考えて、グダグダ気色悪い比較をすれば、そう見えることはあるけど、少なくとも人間、何かをすれば必ず、それなりに得るものがあるはずなんだけどね。
だが、とりあえず1980年代前後のゲーム文化の根底には、このような教育的な発想が色濃く存在していたのもまた事実であろう。
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しかしファミコン以降のコンピュータ式のゲームでは努力は無駄にならず、ほぼ必ずといっていいくらい、少なくとも初心者レベルの範囲でなら、プレイして練習すれば上達するように設計されていると、岡田の著書では述べられている。
{{コラム|オタキング岡田はこういった|
また、ゲーム業界人だけでなくアニメ業界人からも、1998年までの時点で似たようなことが指摘されています。
 
ふーん、要するにゲームプレイヤーって、ゲーム制作者が作った達成感が欲しいから、金払うってわけね。
既に1990年代後半の時点で、アニメ評論家の岡田斗司夫により著書などで、市販のゲームソフトの多くは達成感を味合わせるものだと指摘されている。
たしか岡田の著書『世紀の大怪獣!!オカダ―岡田斗司夫のお蔵出し 』に、そういった話題が書かれており、マリオカートが例に出されている。
 
岡田が言うには、人生はゲームみたいに甘くないし、もしかしたらゲームは現実逃避で不健全かもしれないけど、でも大人だって親だって達成感をもっと感じたいんだぜ・・・だから今日も娘といっしょにマリオカートをプレイしている、と書いてたって言うけど、そもそも現実逃避や不健全から達成感って手に入る?
岡田に言わせれば、ゲーム文化以前の人生の趣味の多くは、必ずしも努力の量と、上達とが比例しない。たとえばスポーツとか、絵画とか、何でもいいが、たしかに練習を多くしても必ずしも上達に結びつくとは限らない。
 
なんか頭のおかしい奴はやたら達成感って言うんだけど、それってほんとに欲しい?
しかしファミコン以降のコンピュータ式のゲームはそうではなく、ほぼ必ずといっていいくらい、少なくとも初心者レベルの範囲でなら、プレイして練習すれば上達するように設計されていると、彼の著書では述べられている。
 
いや、もちろんある程度は欲しいけど、でもそんな重要な事かね? もっと人生で必要なもの、いっぱいないかね?
岡田が言うには、人生はゲームみたいに甘くないし、もしかしたらゲームは現実逃避で不健全かもしれないけど、でも大人だって親だって達成感をもっと感じたいんだぜ・・・だから今日も娘といっしょにマリオカートをプレイしている、というような感じのことを著書で述べていた。
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{{コラム|ガイナックスとはオタキング岡田斗司夫が創業した、アニメーションとコンピューターゲームの製作会社社長ったる。|
なお、岡田らの創業したアニメ会社の「ガイナックスは、現在では『新世紀エヴァピューターリオン』をつくームも作たアニメ会社として語り継がれていますがたね。確か実はゲーム美少女18禁ソフトも開発していましあっよね
 
1991年、『プリンセスメーカー』、育成シミュレーションゲーム。確かに赤井孝美さんのグラフィックは魅力的だった。
多くは美少女ゲームだったりしたのですが、その中に、1991年に開発した『プリンセスメーカー』という当時としては斬新な育成シミュレーションゲームがありました。(少女を育成するゲームとしては、おそらくプリンセスメーカーが世界初。なお、競馬の競走馬を育成するゲーム(ダービースタリオン)1991年12月発売よりもプリンセスメーカー(1991年5月24日)のほうが発売が早い。)
 
文献『少女を光源氏的に育成するゲームプランナーの新しい教科書』でもだったか美少女や少年などのキャラクターを1人または少人数のキャラクターを育成するジャンルを確立したゲーム作品が、こプリンセスメーカーであると述べられていますはしりだね<ref>STUDIO SHIN『ゲームプランナーの新しい教科書』、翔泳社、2018年3月10日 初版 第2刷 発行、P182</ref>。
 
98年にはコナミ社『ときめきメモリアル』というのが出た。ただこれは育成というよりは、美少女との恋愛疑似体験ゲームみたいな、まあ俺はやったことないから詳細は知らないけど、まあ美少女と上手に付き合えるように、男性キャラクターを育成する要素はあったのかね。
さて、1998年ごろにゲーム評論家の阿部広樹(あべひろき)が言うには、
98年当時はコナミ社『ときめきメモリアル』という、美少女と恋愛するための男主人公を育成する育成ゲームがほぼ社会現象のような流行だったのですが(たとえばジャンプ漫画の こち亀(略称。長いので) にも、
明らかに『ときめきモリアル』(略称:「ときメモ」)のようなゲームを話題にした作品が、
社会現象作品として登場しています)。
 
「プリンセスメーカー」→「同級生」→「ときメモ」の流れがあるって、ある評論家は言う。
阿部が言うには、ときメモのような育成SLGは、ゲーム業界での系譜としては、まずプリンセスメーカーが娘の育成ゲームとして登場し、
おそらくは、それを参考にしてPCゲーム会社「エルフ」が美少女アダルトゲーム「同級生」(ゲーム中に男主人公の育成がある)を開発し、
さらにそれを参考にしてコナミ社がときメモを開発したという流れになる、と阿部は著書などで述べています。
 
良くわからないけど、岡田斗司夫はゲーム制作会社の社長でもあるんだから、前のコラムの達成感がどうののたわごとに意義を認めろって、すじ肉は書くんだけど、なんなのこいつ。
 
岡田斗司夫の肩書に関する議論って意味ある?
あくまで阿部氏が著書でそう思っている旨を述べていただけなので、
もしかしたらエルフ社やコナミ社の当時の関係者からすれば元ネタが違う点もあるのかもしれませんが、
少なくとも他社やマニア消費者からはそう思われている(プリメ→同級生→ときメモ という流れを思われている)というワケです。
 
別にアニメ評論家でも、会社社長でも、なんでも勝手に名乗って威張っていればいいけど、でもやっぱり岡田斗司夫の肩書は、オタキングだよね。
 
さて、ときメモの話をしたいのではなく、岡田の話をしたいのです。
 
岡田は当時はゲーム社長だったので、常識的に考えて、プリンセスメーカーの開発に関する情報は、ある程度は耳に入っていると思われます。(ただし、岡田本人はゲームファンではなく、アニメファンかどうかも怪しく、どちらかというとSFファンでした。)
 
いくら岡田がゲームに詳しくないといっても、信頼できる部下にゲーム開発指揮を任せているとしても、岡田が社長である以上、最低限の開発工程の概要や全体像に関する情報が岡田の耳には入っているハズです。
 
 
そういう経験のある岡田が「ゲームはプレイ時間に応じて、上達するように設計されている」と具体的に言うわけですから、岡田のマリオカート評論当時の意見を、過去のゲーム業界人の意見としても、それなりに意見を参考に聞き入れるべきでしょう。
だから「岡田はアニメ評論家じゃねえか」とか言って意見を無視するのは、不見識です。
 
 
また、プリメ→同級生→ときメモ という流れから分かるように、一般にゲーム会社は他社の人気コンテンツを真似ています。
 
攻略本やゲーム雑誌などには一切書かれていませんが、大人の事情で書かれていないだけですので、大人の事情を真に受けないようにしましょう。当然、ときメモ以降の他社の育成ゲームや美少女ゲームも、社会現象になった「ときメモ」を真似しています。誤解のないように再度書きますが、上記で紹介したゲーム郡のうち、岡田経営のガイナックスのゲームは『プリンセスメーカー』だけです。ほかのゲームは他社コンテンツですので、誤解なきよう。
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{{コラム|プリメとデンセペナメーカーdeathpenalty|
少女育成ゲーム・プリンセスメーカーは全滅時の損失が軽いのが、割と画期的だったようです。戦闘で全滅すると、拠点に戻されたうえ、1か月経過する。
プリンセスメーカーには育成システムのほかにも比較的に画期的なところがあって、それは戦闘での全滅時の損失の軽さです。プリメのしリーズでは、戦闘で全滅しても、拠点に戻されることと、育成パートでのターンが1ターン経過するだけです(1ヶ月が1ターンに相当する)。この指摘は別にwikiのオリジナルではなく、1990年代の後半に雑誌『ゲーム批評』で指摘されていたことである。
 
1年に12ターンしか行動できないので、シミュレーションゲームの視点で考えると損失は大きいかもしれませんが、RPGの視点だけで見ると損失は軽い、というわけです。
 
日本の現代的なゲーム評論では、全滅時の損失のことを和製英語でデス ペナルティといいます。英語では dead damage というらしいです(DDと略すようです)。英語ではデスペナルティ death penalty とは「死刑」の意味です。
 
全滅時の損失のことを和製英語でデス ペナルティといいます。英語では dead damage と云うらしい(DDと略すようです)。英語の death penalty は「死刑」の意味だって。
つまりプリンセスメーカーは、デスペネルティが軽くても面白いRPGを作れることを実証したかもしれない可能性があります。
 
つまりどうやら、デスペナルティが軽くても、面白いはRPG は作れるらしい。
 
;デスルーラ
なお、全滅しても拠点に戻るだけのシステムだと、拠点に戻りたい場合にわざと全滅する方法を使えますが、る。これを和製英語で「デスルーラ」といいます言う。ルーラとはドラクエの移動魔法ルーラのことです
 
さて、全滅したときに拠点に戻るゲームでは、標準的な方法では、決してイベントなどで拠点に戻いようにするイベントは不可能です
 
全滅したら拠点に戻れるからね。ただ、戦いが起こらなければどうかな?
なぜなら、たとえば拠点の町に戻る橋を通せんぼしているボス敵がいたとして、ボス敵が「この橋を通りたければ、私を倒すが良い」とか言われてボス戦になったとしても、そのボス戦闘で全滅するとパーティは拠点の町に戻るので、そもそも通せんぼイベントの意味がありません。
 
どちらにしろこの議論、意味ある?
ただし、もしイベント用の特殊なプログラムとして、全滅時には他の町に戻るなどの戦闘の処理を組めば可能ですが。
 
ただ例外的に全滅したとき拠点以外に戻る、っていう事は仕様で作れるよね。
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