「小学校社会/6学年/歴史編/江戸幕府の成立と安定した社会-江戸時代Ⅰ」の版間の差分

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編集の要約なし
:島原には有馬晴信に、天草には小西行長につかえていた元武士の庶民が数多く残っていて、この人たちが集まって反乱を起こすことをくわだてました。総大将には、キリシタンの間で人気のあった当時16歳の{{Ruby|天草四郎|あまくさしろう}}(小西行長の家臣の子)をむかえました。キリシタンを総大将にしたのは、ポルトガルが応援することを期待したのではないかと言われています。
:島原と天草で、ほぼ同時に兵をあげ、天草でもいくつかの城を落としましたが、ばらばらに戦うことは不利ということで、天草の一揆の人々は、島原にうつり、有馬氏の城であった原城にこもりました。この数は27000人から37000人にのぼると言われています。
:この一揆は、領主によるきびしい政治が主な原因で、一揆の農民はキリスト教徒ばかりではなかったのですが、幕府は禁止するキリスト教徒の反乱として、九州各地の大名に兵を出すように命じこれを鎮圧しようとしました。最初は、役職の軽い大名に指揮を取らせようとしましたが、九州の大名は大大名が多く、この指揮をとる大名に従わなかったため、うまくいかず、幕府側は多くの死傷者をだします。幕府これに替えて、将軍家光の側近であった老中{{ruby|松平信綱|まつだいらのぶつな}}を総大将に派遣し、12万人の軍勢によって、原城にこもった人々は皆殺しにされ、一揆は鎮圧されました。
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