「小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ」の版間の差分

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*:幕藩体制の基本は稲作でした。幕府や各藩は、米で年貢を受けており、農民は年貢分に合わせて、換金しやすい基礎的な商品作物として稲作を行っていました。また、幕府でも各藩でも、家臣への給与は米で支払われていました。
*:[[File:Communications by flags.jpg|thumb|200px|大阪の取引価格を伝えた「旗振り通信」]]
*:幕府や各藩は、年貢を集めると自分の領地で必要な分をのぞいて、江戸や大阪にある{{ruby|蔵屋敷|くらやしき}}と呼ばれる一種の倉庫に運びます。それを{{ruby|米問屋|こめどんや}}と呼ばれる商人に売って、現金を得ていました。米問屋は、米を買い付けるだけではなくて、年貢米を{{ruby|担保|たんぽ}}<ref>担保というのは、お金を借りるとき、将来もしも返せなかった場合に、代わりに相手に渡すもののことを言います。「年貢米を担保に」というのは、ある年に、大名が年貢米を担保に1000両を商人に借りたとして、翌年までに1000両返せなければ、年貢米が商人のものとなることを言っています。</ref>に大名などにお金の貸し付けもしていました。また、各藩の領地や農村から直接買い付けて、米問屋へ売ったり、米問屋から買って米の小売店に売る{{ruby|米仲買|こめなかがい}}という商人もあらわれました。
*:家臣への給与としての米も米商人に売ることで武士は現金をえました。江戸では旗本や御家人の米を買い取る米商人を{{ruby|札差|ふださし}}といい、米問屋が大名に対してやったのと同じように、旗本や御家人に貸し付けを行いました。
*:米の売買はこのように日本中で大規模に取引されましたが、特に大阪には、{{ruby|堂島|どうじま}}{{ruby|米会所|こめかいしょ}}という取引所ができて、ここでの取引価格が米の値段を決めていました。堂島米会所では、毎日取引がなされ、この結果は、「{{ruby|旗振|はたふ}}り通信」という旗や夜間{{ruby|松明|たいまつ}}を振って、リレーで伝える方法で、全国に伝えられました。大阪から江戸まで、2時間から8時間で伝わったそうです。