「小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代」の版間の差分

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;平清盛の政治
[[File:Itsukushima Hiroshima.JPG|thumb|200px|厳島神社。平氏の一族は、一族の{{ruby|繁栄|はんえい}}を厳島神社に願った。{{ruby|国宝|こくほう}}。世界{{ruby|遺産|いさん}}。]]
:<span id="保元"/>1156年天皇家や藤原氏のあとつぎについて、双方が武士団を味方につけて争いました({{ruby|保元|ほうげん}}の{{ruby|乱|らん}})。この争いで、武士が中央の政治にかかわるようになり、1160年に平氏の'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#平清盛(たいらのきよもり)|平清盛]]|たいらのきよもり}}'''が源氏で最も有力であった{{ruby|源義朝|みなもとのよしとも}}<span id="義朝"/>を倒して政権をとりました({{ruby|平治|へいじ}}の乱<span id="平治"/>)。それ以降、天皇や貴族から政治の実権は武士が握るようになりました。
:清盛の一族である平氏は、元々、瀬戸内海の海賊をとりしまることで、朝廷や上皇の信頼をえてきたということから、瀬戸内海沿岸や九州といった西日本に勢力を持っていました。清盛は 海の神をまつっている {{ruby|厳島|いつくしま}}神社 を{{ruby|敬|うやま}}いました。厳島神社は、広島県にあります。清盛は、厳島神社の神を、平氏一族がまつるべき{{ruby|氏神|うじがみ}}としました。清盛が、北部九州をおさめ瀬戸内海を安全に航海できるようになったので、唐の後に中国を統一した'''{{ruby|宋|そう}}'''との間の{{ruby|貿易|ぼうえき}}が盛んになりました('''{{ruby|日宋貿易|にっそうぼうえき}}'''<span id="日宋貿易"/>)<ref>9世紀末から、唐は国内が乱れていて、907年に滅亡します。その後、960年宋が乱れた中国を統一します<span id="宋"/>。[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#遣唐使の中止と国風文化|894年遣唐使は中止になりましたが]]、その後も、国と国の間ではなく、商人の間での商品の売り買い(貿易)の行き来は続いていました。</ref>。
:1167年には、平清盛は、武士としては初めて {{ruby|太政大臣|だいじょうだいじん}} の位につき、娘を天皇の{{ruby|妃|きさき}}に、その子を天皇({{ruby|安徳|あんとく}}天皇)にし、平氏一族の者ばかりを、朝廷の重要な役につけるなど、道長のころの藤原氏と同じような政治をしました。これを、清盛の弟{{ruby|平時忠|たいらのときただ}}は「{{ruby|平家|へいけ}}にあらずんば、人にあらず(平家の者でなければひとではない)」と言ってほこったと伝えられます。一方で、貴族や他の武士団の利益をかえりみなかったことなどから、他の武士団の反発をまねき各地で反乱が起きました。1180年には、義朝の子で伊豆に流されていた'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#源頼朝(みなもとのよりとも)|源頼朝]]|みなもとのよりとも}}'''が、{{ruby|鎌倉|かまくら}}(神奈川県鎌倉市)を拠点として関東の武士団をまとめて兵を上げ、西に兵を進めました。
;源平の戦い<span id="平家滅亡"/>
:清盛の生前はこのような反乱はおさえられていたのですが、1181年清盛が死去すると、清盛にしたがっていた{{ruby|後白河法皇|ごしらかわほうおう}}<span id="後白河法皇"/>や貴族も平氏から離れ、1183年に後白河法皇は平氏をほろぼすよう命令を出しました。同年、北陸からせめ入った{{ruby|源義仲|みなもとのよしなか}}({{ruby|木曽|きそ}}義仲)<ref>源氏の一族で頼朝のいとこですが、父親を頼朝の兄により殺されています。</ref>が平氏を都から追い出し、平氏は幼い安徳天皇をつれて現在の神戸市の近辺に逃れます。義仲は、頼朝と対立し、翌年、頼朝の軍にほろぼされます。
:頼朝は、鎌倉にいたまま、弟の{{ruby|源範頼|みなもとののりより}}や'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#源義経(みなもとのよしつね)|源義経]]|みなもとのよしつね}}'''らに、関東の武士団をひきいさせ、平氏を追いつめます。平氏は四国などに逃れた後、1185年{{ruby|壇ノ浦|だんのうら}}(山口県下関市)の戦いでほろびます。