「小学校社会/6学年/歴史編/室町文化の誕生-室町時代」の版間の差分

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=== 室町幕府の誕生 ===
;鎌倉幕府の{{ruby|動揺|どうよう}}
:[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#元寇|元寇]]でモンゴル軍を追い返したものの、代わりに与える恩賞はありませんでした。また、[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#鎌倉時代の社会の変化と文化|鎌倉時代の安定した世の中で商品の取引が盛んになってきた]]一方で商品につかうためのお金も増えて御家人の中には貧しくなり借金をする者もでて、中には借金が返せず、かわりに所領を取られるものも出てきました。御家人が財産を失うと、[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#封建制|幕府へのつとめ]]をあてにできなくなるので、幕府は、この借金を返さなくてもよく、また、かわりに取られた所領を元にもどすという命令('''{{ruby|徳政令|とくせいれい}}'''<ref>'''徳政令'''<span id="徳政令"/>は、今借金をしている御家人の救済にはなりましたが、徳政令が出された後、借金しないですむ生活になるわけではないので、御家人は借金ができなくなって、かえって困ることとなりましたし、借金をするとき、「徳政令が出ても、借金は返す/所領は返さない」などの約束をするようになり、のちには、効果がなくなってきました。</ref>)を出したりしました。
:一方で御家人ではない武士でも、馬などを使った商品のやり取りを護衛するなどで経済力をつけ、力をつけるものなどがあらわれ、武士の世の中が乱れました。幕府は、有力な御家人は北条氏によって倒され、御家人ではない北条氏の直接の家臣などが力を持って、むかしからの御家人と対立するなど、これをうまくおさめられていませんでした。
;鎌倉幕府の滅亡と建武の新政<span id="鎌倉滅亡"/>
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:'''{{ruby|後醍醐|ごだいご}}天皇'''は、執権北条氏を倒して政治の改革をしようと全国の武士に呼びかけます。後醍醐天皇の呼びかけには、河内国(現在の大阪府)の武士'''{{ruby|楠木正成|くすのきまさしげ}}'''などがこたえ、全国で幕府に対する反乱が起きます。幕府は全国に兵を送り、これをしずめようとしますが、1333年、京都に送った'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#足利尊氏(あしかがたかうじ)|足利尊氏]]|あしかがたかうじ}}'''が幕府の役所である{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#六波羅探題|六波羅探題]]|ろくはらたんだい}}をせめると、全国に幕府に対する兵が上がり、ついには、鎌倉の北条氏を'''{{ruby|新田義貞|にったよしさだ}}'''がほろぼします。
:こうして、後醍醐天皇による、天皇を中心とした政治がはじまります。この政治を、元号「{{ruby|建武|けんむ}}」から、'''{{ruby|建武|けんむ}}の{{ruby|新政|しんせい}}'''といいます。
:後醍醐天皇は、御家人という考えをやめて、全ての武士を平等に取り扱いました<ref>鎌倉時代において[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#鎌倉御家人|御家人]]というのは、非常に狭い考え方で、鎌倉の将軍と直接の「御恩と奉公」の関係を結んだ者のみを言います。正式に御家人とされる人たちは非常に少なく500人位だったのではないかと言われています。その他、貴族や寺社が所有する荘園では、荘園の役人(荘官)として、武士が雇われていました。この武士は、将軍との間に関係はなく荘園の所有者のみとの関係(基本的には、「御恩と奉公」です)が結ばれています。この武士は「非御家人」と呼ばれていて、[[#徳政令|徳政令]]など幕府の保護の対象とはなっていませんでした。その他、将軍と「御恩と奉公」の関係を結んでいない武士も少なからずいました。御家人は、世襲制でしたので、幕府の保護に差があることに、御家人ではない武士に不満が高まっていました。</ref>。しかし、この新政は、恩賞や朝廷の官職などについて公家が優先されたことなどから、多くの武士の不満を生じさせました。
;室町幕府の誕生と南北朝時代<span id="室町幕府誕生"/>
:こうした武士の不満を受けた尊氏は、後醍醐天皇に反して別の天皇を立て<ref>鎌倉時代の後期から、天皇家は二つの家系に分かれており、交互に天皇を出しあっていました。尊氏は後醍醐天皇と別の家系の親王を天皇としました。</ref>、1338年、'''[[小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代#将軍|征夷大将軍]]'''に任ぜられ、幕府を開きます。後に第3代将軍となった尊氏の孫'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#足利義満(あしかがよしみつ)|足利義満]]|あしかがよしみつ}}'''が、京都の{{Ruby|室町|むろまち}}というところに屋敷をかまえ、そこで政務をとったので、これを、「'''{{ruby|室町|むろまち}}幕府'''」といい、この時代を「'''{{ruby|室町|むろまち}}時代'''」と言います。
:後醍醐天皇は、奈良県の吉野にのがれて、全国の武士などに尊氏をうつように命じます。後醍醐天皇とその子孫が天皇の朝廷を'''{{ruby|南朝|なんちょう}}'''、尊氏が立てた天皇の朝廷を'''{{ruby|北朝|ほくちょう}}'''といい、この二つがともにあって、全国で争った時期を「'''{{ruby|南北朝時代|なんぼくちょうじだい}}'''」と言います。
<!-- 追記の予定が「鎌倉幕府の動揺」で書いてしまった気はする。
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{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="鎌倉滅亡"/>どうして鎌倉幕府はほろんだのか'''<small>
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=== 室町幕府の完成と武家社会の変化 ===
[[File:Yoshimitsu Ashikaga cropped.jpg|thumb|200px|{{ruby|足利義満|あしかがよしみつ}}]]