「小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
44 行
[[File:Minamoto2.jpg|thumb|180px|源頼朝と伝えられる人物]]
:1185年平氏を滅ぼした'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#源頼朝(みなもとのよりとも)|源頼朝]]|みなもとのよりとも}}'''は、武士による政治を確立させようとします。
:同年、義経を逮捕するという名目で、自分の家来である武士('''{{ruby|御家人|ごけにん}}''')を各国の軍事や治安を取りまとめる'''{{ruby|守護|しゅご}}'''と各荘園の治安を守り、{{ruby|年貢|ねんぐ}}(米の収穫の税)などをとりたてる'''{{ruby|地頭|じとう}}''' に任じて全国に武士の支配を広げました。
:頼朝は1192年'''{{ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}}'''(将軍)というすべての武士の長に任ぜられ、鎌倉に将軍の役所である'''{{ruby|幕府|ばくふ}}'''を開きます。これを、「'''{{ruby|鎌倉幕府|かまくらばくふ}}'''」といい、鎌倉に幕府がある時代を「'''{{ruby|鎌倉|かまくら}}時代'''」と言います。
:頼朝は、清盛と異なり、太政大臣や摂政・関白といった朝廷の最高職を求めませんでしたし、京都で、政治を行うことなく、鎌倉にとどまりました。今までの、朝廷の政治とはちがう、武士の政治を始めたのです。
107 行
:平安時代の後期から鎌倉時代に比べそれより前の時代は、同じ広さの土地から収穫する量が少なく<ref>これを、「生産力が低い」という言い方をします。</ref>、日々の家族の生活分と税を引くと余る分はほとんどなく(「[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#班田収授|奈良時代ころの農村の様子]]」などをふりかえってみましょう)、市で、日常に野菜や魚、塩や油などと、まれに布などととりかえると、もう、とりかえるものはない生活でした。
:武士の世界の進展は、刀ややじりの買い手を増やしました。買い手が増えると、売り手(作り手)である{{ruby|鍛治|かじ}}も増えますし、鉄を作るのに木炭の生産も増えます。そうすると、刀以外の鉄製品が安くなり、農具にも多く用いられるようになって米など農産物の生産が増えます。増えて、日々の生活から余ったものについては売りに行きますから、商業がおこります。
:また、多くの武士は戦さのために馬を使います。うため、馬を飼う習慣がつく広がります。馬を飼うようになる、戦さのないときには、馬で遠くへ農産物や工芸品などを多く運ぶことができるにも使うようになりました。また、農村が豊かになると、牛などを買い求め<ref>当時は、牛を食べることはめったになく、「すき」などを引かせるのに使っていました。</ref>田畑をより深くたがやし収穫量を増やすことができるようになりました。
:清盛が盛んにした[[#日宋貿易|日宋貿易]]は、平家滅亡後もつづけられました。<span id="日宋貿易"/>日本からいろいろなものが輸出されましたが、中でも、日本刀は重要な輸出品でした<ref>ただし、多くは武器として使われたのではなく、中国で鉄器の材料となったのではないかといわれています。</ref>。日本からの輸出に対して、多くの宋の貨幣{{ruby|宋銭|そうせん}}<span id="宋銭"/>が入ってきました。日本でも708年に[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#和同開珎|和同開珎]]を作り、その後も何度も作ったのですが、当時は、貨幣を使うほどのものの取引は少なく、また、朝廷の発行する貨幣の品質が悪かったなどの理由で、人々にあまり使われませんでした。このころ、商業が盛んになったのにともなって、宋銭が人々の間で使われるようになりました<ref>宋銭は、質の良い銅でできているので、初めのうちは仏具の材料として輸入されていました。これを、国産の貨幣と同じように貨幣として使用することを進めたのは平清盛であると言われています。</ref>。
:また、朝廷の力が弱まった頃は山中などで{{ruby|盗賊|とうぞく}}におそわれることもよくありましたが、守護や地頭がおかれたことで各地の治安が安定すると、産品を安全に遠距離輸送できるようになり、こうして、庶民を含めた人々の生活が多様で豊かなものになってきました。
;鎌倉仏教<span id="鎌倉仏教"/>
129 行
:13世紀初め中国北西部に接するモンゴル({{ruby|蒙古|もうこ}})にチンギス・ハーン(ジンギス・カン<ref>「チンギス(ジンギス)」が名で、「ハーン(カン : 漢字で『汗』)」が国王の意味です。</ref>)がモンゴル帝国を開き、はげしい勢いでユーラシア大陸全土にわたって勢力範囲を広げました。モンゴル帝国は南下して、「{{ruby|金|きん}}<ref>中国北東部・朝鮮半島北部に住んでいた{{ruby|女真族|じょしんぞく}}が建てた国。1125年南下し、「[[#宋|宋]]」を長江の南に押し出し、黄河流域に帝国を作っていました。</ref> 」を滅ぼし、代わって「'''元'''」という国を建てました。元はさらに、朝鮮半島の{{ruby|高麗|こうらい}}も領土とし、長江の南にあった「[[#宋|宋]]<ref>金に押し出された後を「{{ruby|南宋|なんそう}}」といいます。</ref>」に攻め入ろうとしていました。
:元は、日本にも使者を送り、元にしたがうよう要求しました。執権'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#北条時宗(ほうじょうときむね)|北条時宗]]|ほうじょうときむね}}'''は、使者を切り殺し、これを断りました。
:1274年、元は朝鮮半島から3~4万人の兵を出し、対馬、壱岐を攻め落とした後、九州北部に上陸しました。幕府は九州各地の御家人を集め応戦しました。元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と{{ruby|呼|よ}}ばれた)、毒矢、元軍の集団戦<ref>それまでの日本の武士の戦いは、お互いが名乗りをあげて一騎討ちをするのが一般的でした。</ref>といったものに苦戦しましたが、これを撃退しました({{ruby|文永|ぶんえい}}の役)
:この戦いのあと、幕府は、今の福岡県にある{{ruby|博多|はかた}}湾の沿岸に防衛用のの{{ruby|石垣|いしがき}}'''{{ruby|石塁|せきるい}}'''を築き、九州だけでなく各国の御家人と御家人ではない武士を九州北部と長門国に集め、次のモンゴル軍がせめこんでくるのに備えました。
:1281年に、元の軍勢は、14万人もの大軍を率いてふたたび日本におそいかかりました。日本は十分に準備をしていたのにくわえ、ちょうど、台風が通過しモンゴルの船団に大きな被害を出し、撃退することに成功しました({{ruby|弘安|こうあん}}の役)
:この2度の元の{{ruby|襲来|しゅうらい}}を あわせて '''{{ruby|元寇|げんこう}}''' といいます。
:撃退に成功したものの、幕府は得るものがなかったので恩賞を十分に与えることができず、各地の武士には、大きな不満が残りました。