「小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代」の版間の差分

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:「{{ruby|一所懸命|いっしょけんめい}}」という言葉がありますが、これは、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子からできた言葉です<ref>なお、これが転じて「{{ruby|一生|いっしょう}}懸命」となりました。</ref>。
:1232年、このような土地の扱いや犯罪と処罰について明確にするよう、「'''{{ruby|御成敗式目|ごせいばいしきもく}}'''」という法律が作られました。
:<span id="鎌倉御家人"/>なお、武士のすべてが、御家人というわけではありません。御家人とは、あくまでも将軍との間にご恩奉公の関係のある武士をいいます。その数ですが、13世紀末だと500人くらいだったと言われています。もちろん、それだけでは戦争など行けませんから兄弟や親類、代々の家来など(これを、'''{{ruby|一族郎党|いちぞくろうとう}}'''といいます)をしたがえます。御家人は江戸時代でいうところの大名を想像すればよいかと思います。また、公家や寺社の荘園に、武装して{{ruby|荘官|しょうかん}}としてつかえる武士のように、御家人でも、御家人の一族郎党でもなく、したがって幕府とかかわりの少ない武士もいました。
:御家人たちの{{ruby|屋敷|やしき}}は、{{ruby|武家造|ぶけづくり}}という作りで、屋敷のまわりに{{ruby|堀|ほり}}があったり、{{ruby|塀|へい}}で囲まれていたりと、戦いにそなえたつくりになっています。
:武士は、日ごろから [[w:流鏑馬|やぶさめ]] などの武芸にはげんでいました。「やぶさめ」とは、馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに{{ruby|射|い}}る武芸のことです。
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:1281年に、元の軍勢は、14万人もの大軍を率いてふたたび日本におそいかかりました。日本は十分に準備をしていたのにくわえ、ちょうど、台風が通過しモンゴルの船団に大きな被害を出し、撃退することに成功しました({{ruby|弘安|こうあん}}の役)。
:この2度の元の{{ruby|襲来|しゅうらい}}を あわせて '''{{ruby|元寇|げんこう}}''' といいます。
:撃退に成功したものの、幕府は得るものがなかったので恩賞を十分に与えることができず、各地の武士には、大きな不満が残りました。また、御家人だけではなく、その他の武士も元寇にそなえるよう北部九州や{{ruby|長門|ながと}}国(現在の山口県)に集めたため、御家人でない武士は、御家人と同じとりあつかいにするようもとめました。
 
== 脚注 ==