「小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代」の版間の差分

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=== 条約改正と国際社会での地位の向上 ===
[[File:Chikamatsu Kiken buto no ryakuke.jpg|thumb|300px|鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵]]
==== 国際社会と日本 ====
;不平等条約改正の歩み
:幕末に欧米各国と結ばれた通商条約(不平等条約)の改正は日本政府の悲願でした。
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: 1914年(大正3年)にヨーロッパの国々を二分した'''[[#全世界を巻き込む戦争 - 第一次世界大戦|第一次世界大戦]]'''が始まりました。日本は、イギリスやフランスの属する[[#協商国|協商国]]に参加し、敵対する[[#同盟国|同盟国]]の一つであるドイツが租借する中国の{{ruby|青島|チンタオ}}<ref name="中国地名"/>や南太平洋の島々を占領しました。1919年戦争は協商国の勝利に終わり、翌年、平和を維持するための'''[[#国際連盟|国際連盟]]'''が設立、日本は英仏などとともに常任理事国の一つとなりました。
: 第一次世界大戦は、今までに見られなかったほどの大規模な戦争で、戦場が全国土に広がり多くの工場設備なども失われ、工業生産が止まってしまったりしました。しかし、主な戦場はヨーロッパで、日本への被害はほとんどなかったため、日本は、ヨーロッパの工業生産に代わって、綿糸や綿布といった繊維製品や化学肥料など、さまざまな工業製品を輸出しました。また、日本へのヨーロッパからの輸入が止まったため、それにかわる重工業などが起こるきっかけにもなり、国際取引においても機械など高度な工業製品を輸出できる国となりました。第一次世界大戦の影響で日本の経済は急速に成長しました。
;==== 明治後期から大正にかけての人々の生活や文化と学問 ====
;民主主義を求める動き - 大正デモクラシー
:明治維新後、さまざまな[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#殖産興業|殖産興業]]の取り組みによって、経済的余裕ができ、国民生活は向上し、さまざまな近代文化の進展が見られました。また、欧米から伝わった工業的な製紙法と活版印刷は安価で大量の印刷を可能として、新聞や雑誌が広く普及します。これら新聞や出版業の発達したことと、[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#学校|学校制度]]が定着し教育水準が上がったことで、国民の政治参加の意識も高まりました。
:1918年(大正7年)、当時、コメの価格<ref>コメは、現在よりもはるかに生活に重要な物資で、当時の平均的な家計消費支出の3割程度を占めていたと考えられます。なお、現在では1%程度です。</ref>が上がりつつあって、コメ業者などが買いしめ・売りおしみをする様子がありました。これをに不満を持った庶民の暴動が富山県で起こったりしていました。このような中、[[#ロシア革命|ロシア革命]]で共産主義の国が誕生したことに対抗して政府はロシアのアジア地域(シベリア)に出兵することを決めました(シベリア出兵)。大規模な軍隊を出兵させることは、大量の食糧が必要となることを意味しますから、一部のコメ業者が、ますます買いしめ・売りおしみをすすめたため、コメの価格が急激に上がりました。この、コメの値上がりと富山県での暴動の新聞による暴動を受け、コメの値上がりに対する暴動は日本国中に広がりました('''コメ騒動''')。コメ騒動を、解決できなかった軍人出身の{{ruby|寺内正毅|てらうちまさたけ}}首相は辞職し、代わりに[[#華族|華族]]ではなく、また幕末に賊軍とされた岩手県盛岡出身<ref>明治維新以来、明治政府は、討幕に功績のあった「{{ruby|薩長土肥|さっちょうどひ}}」と言われる、薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩出身、特に長州藩・薩摩藩出身の政治家が力を持っていました({{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#藩閥政治|藩閥]]|はんばつ}}政治)。明治維新から50年たって初めて、藩閥以外の国のリーダーが登場したのです。</ref>の{{ruby|原敬|はらたかし}}が首相となりました。人々は原首相に『平民宰相』とあだ名をつけて歓迎しました。
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:このような、民主化の動きを「'''大正デモクラシー'''」と言います。しかし、まだ女性には選挙権は認められていませんでした。
:<span id="政党政治"/>このように、国民の政治への関心が高まると、選挙で選ばれた国会議員による衆議院の発言力が強まり、[[#内閣総理大臣|内閣総理大臣なども衆議院の意向を受けて選び出されることもありました]]。しかし、一方で議会での議論においては、政党同士の争いもあって、無駄な議論がなされるように見えることもありました。また、政策に関しての、議員の{{ruby|汚職|おしょく}}なども発生するようになりました。
;国際化する文化と学問
:[[小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代#文明開化|文明開化]]を受けて、日本には西洋風の文化が広く普及し、明治20年(1887年)代以降になると、それを受けた独自の文化が育ってきました。
:新聞や出版業の発達は上で述べたとおり人々の政治への意識を高めたところですが、そこには、政治的な考えなどだけではなく、人々の娯楽としての小説なども掲載されるようになりました。明治も初めのうちは、歌舞伎の演目などを題材としたものが多かったのですが、1885年(明治18年)、{{ruby|坪内逍遥|つぼうちしょうよう}}は、『{{ruby|小説神髄|しょうせつしんずい}}』をあらわし、人々の普段の生活に近い題材をとりあげる、いわゆる近代文学を提唱しました。またその中で、話し言葉と書き言葉の間の大きな違いから、もっと平易で話し言葉に近い言葉を使うよう進められました。これを{{ruby|言文一致|げんぶんいっち}}運動といいます<ref>ただし、今でも話し言葉と書き言葉は同じものではありません。</ref>。このような動きのなかで、多くの近代文学というものが生まれました。その中には、1895年(明治28年)に『たけくらべ』を書いた{{ruby|樋口一葉|ひぐちいちよう}}のような女性もいました。その後、{{ruby|森鴎外|もりおうがい}}や{{ruby|夏目漱石|なつめそうせき}}があらわれ、近代文学が確立します。特に、夏目漱石が1905年(明治38年)に初めて書いた小説『{{ruby|吾輩|わがはい}}は猫である』はユーモアに富んだ内容と落語にヒントを得たとされる平易な語り口調で広く普及し、日本語の書き言葉の元になったとも言われています。
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:まず、<span id="スペインかぜ"/>1918年(大正7年)から1920年(大正9年)にかけて世界中で流行した'''スペインかぜ'''といわれるインフルエンザの大流行です。当時は第一次世界大戦の交戦中であったため、軍人を中心に広く行き来し世界中で流行しました。全世界で30%にあたる5億人が感染し、少なくとも1700万人の死者がでたものと推定されています。日本においてもこの3年間で約40万人程度の死者が出ました<ref>最近のコロナ禍で、2020年から2022年7月現在の死者の累計数が約3万人であることと比較してみてください。</ref>。
:もう一つは、<span id="関東大震災"/>1923年(大正12年)9月1日、南関東一円を襲った'''関東大震災'''です。マグニチュード7.9〜8.3と推定される大地震<ref>1000年に1度と言われる2011年東日本大震災のマグニチュードは9.0で特別ですが、1995年阪神淡路大地震のマグニチュードは7.3くらいです。</ref>で、約1万人が倒れた建物の下敷きになって亡くなり、約9万人が、地震ののちに発生した火災で亡くなりました。
 
== 世界の変化3 ==
:'''この節は、小学校で学習する範囲を超えていますが、昭和以後の日本の歴史に大きく関わる第二次世界大戦がなぜ起きたのか、その後、「世界」はどうなったのかということを理解できていないと、昭和以降の日本の歴史を深く理解することはできません。'''