「小学校社会/6学年/歴史編/明治維新と近代国家日本の成立-幕末・明治時代」の版間の差分

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:長州藩と薩摩藩は幕府との関係で敵対することもありましたが、1863年から1864年にかけて、それぞれヨーロッパの艦隊と戦い大きな被害を出すという共通の経験を経て<ref>この時、銃火器の差の大きさが痛感されました。日本では、まだ、安土桃山時代の火縄銃がそのまま使われていましたが、欧米では、射程が長く、命中度も高く、取り扱いが簡単な銃器が大量に存在していました。</ref>、欧米諸国に日本は大きく遅れており、それに追いつくには、西洋諸国との付き合いを避けるという「攘夷」ではなく積極的に外国に学ぶことが必要であると考えるようになりました。そうして、現在の幕府の仕組みではうまくいかないとして、同盟して({{ruby|薩長同盟|さっちょうどうめい}}<ref>これを仲介したのが、{{ruby|坂本龍馬|さかもとりょうま}}と言われています。</ref>)、攘夷から幕府をうちたおすこと({{ruby|倒幕|とうばく}})に方針を変えました。
:[[File:Tokugawa yoshinobu.jpg|thumb|200px|第15代将軍徳川慶喜]]
:開国や通商条約の締結にあたって、幕府がしっかりした方針を示せなかったことは、全国の大名に不安をもたらしました。開国に伴って海外の様子が伝わり、[[#帝国主義|イギリスやフランスが多くの国や地域を植民地にしていったこと]]も知られるようになり、このままでは日本も植民地にされてしまうということも恐れられるようになりました。また、開国に伴って各大名が近代兵器を海外から買い付けたことや、金が海外へ流出したこと<ref>日本には{{ruby|佐渡金山|さどきんざん}}など世界有数の金鉱山があって金を豊富に持っていました。一方で欧米諸国ではメキシコなどで銀が大量に採掘されていて、銀の価値は比較的低いものでした。その結果、日本では金と銀を1:5で交換していたのですが、欧米では1:15で交換していました。そこで、欧米の商人たちは、銀で日本の金を買って持ち出したため、日本から大量の金が国外に流出しました。そして、日本では金の価値が上がり、銀の価値は下がることとなります。[[小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ#両替商|江戸時代は、金も銀も通貨として使われていましたが、交換の割合は決まっていませんでした]]。銀は幕府の公共事業の報酬などに使われており、庶民もよく手にするものでしたが、その価値下がり、他方、大名や大商人間の取引や一部の税の支払いは、金で決済されることが多かったのですが、金が上がったため、その調達の費用が増えました。</ref>で、物価が上がって庶民の暮らしは苦しくなり、世の中は騒然としました。このようになっても、幕府は諸大名をまとめられず、効果的な政策を行うこともできなくなっていました。
:このような中、1867年第15代将軍'''{{ruby|徳川慶喜|とくがわよしのぶ}}'''が、征夷大将軍を辞任し('''{{ruby|大政奉還|たいせいほうかん}}''')、260年以上続いた江戸幕府は終わりを告げます。慶喜は、大名が相談して政治を進めることを期待して、慶喜自身もそれに徳川家の代表として参加するつもりでしたが、西郷らは、天皇中心の政府(新政府)を作るために('''{{ruby|王政復古|おうせいふっこ}}''')、翌1868年、江戸幕府をはじめとして、明治政府に従わない大名を従えるため戦争を起こしました('''{{ruby|戊辰戦争|ぼしんせんそう}}''')<ref name="新政府">徳川家は、将軍職と無関係に約400万石の経済力を持っていました。天皇家と全ての公家を合わせても10万石、薩長を合わせても100万石程度なので、徳川家がある限り薩長が主導権を握ることはあり得ませんでした。また、幕藩体制は、徳川幕府が格段に強い権力と財力を持っていたとはいえ、基本的には、大名の連合であって、欧米諸国に追いつくためには、各々の大名が持つ財力を一つの政府にまとめる必要がありました。討幕に加えて、廃藩置県をして、全ての税金が政府に集まり仕組みが作られて初めて、鉄道や官営工場などの投資ができるようになったのです。</ref>。西郷らは、公家の{{ruby|岩倉具視|いわくらともみ}}などを味方につけ、天皇の権威({{ruby|錦|にしき}}の{{ruby|御旗|みはた}})をもって、天皇の軍隊として幕府を攻めました。新政府軍は、薩摩藩及び長州藩を中心として、後に土佐藩<ref>土佐国(現在の高知県)を領有する、山内家を藩主とする藩です。坂本龍馬の出身地でもあります。</ref>や肥前藩(佐賀藩)<ref>肥前国東部(現在の佐賀県)を領有する、鍋島家を藩主とする藩です。</ref>が加わります。長州藩では、武士だけではなく、農民他庶民も軍に加わりました({{ruby|奇兵隊|きへいたい}})。この戦争で中心となった、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩の出身者が、明治政府の中心(「{{ruby|薩長土肥|さっちょうどひ}}」)となります。
:新政府軍は、京都から東に進んで、江戸城を攻めようとしましたが、幕府を代表する'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#勝海舟|{{ruby|勝海舟|かつかいしゅう}}]]'''が、西郷隆盛と交渉して、江戸城は新政府に明け渡されました。その後、東北北越地方の大名との戦いや、函館で旧幕臣らとの戦いがありましたが、新政府軍が勝利し、1869年5月戊辰戦争は終わります。
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== 明治維新と文明開化 ==
=== 明治維新と武士の社会の終わり ===