「小学校社会/6学年/歴史編/江戸時代の文化-江戸時代Ⅱ」の版間の差分

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:*{{ruby|柳沢吉保|やなぎさわよしやす}}を{{ruby|側用人|そばようにん}}として用いました。
:*動物を大切にすることをさだめた「{{ruby|生類憐|しょうるいあわれ}}れみの令」という法律を出して、特に犬を大事にしたので「{{ruby|犬公方|いぬくぼう}}」として有名ですが、これは、武士のあらあらしい行動は平和な世の中にふさわしくないため、武力を日常に出すことはひかえて、学問などをおさめることにつとめるよう、さとしたものとも言われています。このような様子を「<u>『{{ruby|武断|ぶだん}}政治』から『{{ruby|文治|ぶんち}}政治』へ</u>」という言い方をします。
:*上方を中心に商業が発展した町人文化「'''[[#元禄文化|{{ruby|元禄|げんろく}}文化]]'''」が花開きました。
:第6代将軍{{ruby|家宣|いえのぶ}}(将軍在位1709年-1712年)
:*学者の{{ruby|新井白石|あらいはくせき}}を用いて、綱吉の時代の経済が拡大したことで起こったインフレーションをしずめる政策('''{{ruby|正徳|しょうとく}}の{{ruby|治|ち}}''')を行いました。
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:第11代将軍{{ruby|家斉|いえなり}}(将軍在位1787年-1837年 大御所:-1841年)
:*{{ruby|飢饉|ききん}}やそれにともなう百姓一揆・打ちこわし<ref>江戸や大阪といった都市の民衆が、政治などに不満を持った大きな商人などの店を集団でこわすことを言います。都市における百姓一揆みたいなものです。</ref>が増え、また、幕府の財政が再び悪化したため、田沼意次はやめさせられました。それに代わって{{ruby|松平定信|まつだいらさだのぶ}}'<span id="定信"/>が老中{{ruby|筆頭|ひっとう}}に任命され、倹約などをすすめることで、幕府の財政の立て直しをはかりました。これを、これを'''{{ruby|寛政|かんせい}}の{{ruby|改革|かいかく}}'''と言います。
:*経済活動が、上方中心から江戸へと移ってきて、江戸の町民文化が盛んになりました。これを「'''[[#化政文化|{{ruby|化政|かせい}}文化]]'''」といいます。
:第12代将軍{{ruby|家慶|いえよし}}(将軍在位1837年-1853年)
:*幕府財政がまた悪化してきたため、大老となった{{ruby|水野忠邦|みずのただくに}}'<span id="忠邦"/>が改革政策である'''{{ruby|天保|てんぽう}}の{{ruby|改革|かいかく}}'''を行いました。
|}</div>
=== 江戸時代の文化 ===
:江戸時代になって、大名同士のあらそいがなくなったので、日本全国にわたる商業が安全にできるようになりました。そうして、それまでの時代と比べて商業が特に発達しました。商業の発達によって、大阪や京都、江戸といった都市が発達し、そこの住民に町人文化が発達しました。
;<span id="元禄文化"/>元禄文化
[[File:Shibai Ukie by Masanobu Okumura.jpg|thumb|250px|歌舞伎の劇場]]
[[File:ChikamatsuM.jpg|180px|thumb|近松門左衛門]]
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:絵画も大衆化し、このころ'''{{Ruby|菱川師宣|ひしかわもろのぶ}}'''が'''{{Ruby|浮世絵|うきよえ}}'''を創始しました。浮世絵は、版画の一種で何枚も同じ絵をすることができるので、庶民でもこれを買い求めることができました。
{{-}}
;<span id="化政文化"/>化政文化
:江戸は幕府が開かれた当時は、全国から武士のみが集まる都市でしたが、元禄から、100年ほど後の「'''{{ruby|文化|ぶんか}}'''」「'''{{ruby|文政|ぶんせい}}'''」といった元号の時期(1804年-1830年)には、武士以外の商人や職人なども増えて、町人文化が見られるようになりました。これを、「文'''化'''」「文'''政'''」から、「'''{{ruby|化政|かせい}}文化'''」といいます。
:江戸でさかんとなった庶民文化としては、従来の歌舞伎などの芸能に加え、芝居小屋より小さな{{ruby|寄席|よせ}}ができて、落語、講談、浄瑠璃、手品・曲芸など一人または少人数による出し物も楽しまれるようになりました。
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:幕府が公認していた学問は'''儒学'''のうち'''{{ruby|朱子学|しゅしがく}}'''と言われるものでした。家康は、朱子学の学者である{{ruby|林羅山|はやしらざん}}を重く用い、幕臣に朱子学を学ばせました。[[#綱吉|第5代将軍綱吉]]は、世の中が平和になったので、それまで武士は、何かと武力で解決しようとしていた(武断政治)のを、何が正しいかを議論することや法令によって解決できるよう(文治政治)、武士に儒学を学ぶよう命じました。林羅山の子孫は、代々幕府で学問の責任者となります。羅山のころは、私的な塾で教えられていたのですが、その塾をもとに、後に幕府は{{ruby|昌平坂|しょうへいざか}}{{ruby|学問所|がくもんじょ}}をつくります。
:朱子学は、各藩でも{{ruby|藩校|はんこう}}がつくられ、そこで教えられました。
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{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="儒学"/>儒学・儒教<small>
:{{ruby|儒学|じゅがく}}は、中国で紀元前6世紀から5世紀に{{ruby|孔子|こうし}}という人が始めた教えです。宗教としての性格もあるので{{ruby|儒教|じゅきょう}}とも言います。
:儒学は、紀元前2世紀からずっと、中国の王朝で正統とされた学問です。内容を伝えることは、簡単ではありませんが、この教えの特徴をよく伝える『{{ruby|礼記|らいき}}<ref>儒学の重要な書物の一つです。</ref>』の言葉「{{ruby|修身|しゅうしん}}、{{ruby|斉家|せいか}}、{{ruby|治国|ちこく}}、{{ruby|平天下|へいてんか}}」をあげておきましょう。意味は、「自分の行動を正しくし、家族がばらばらではなく、国がおさまるようであれば、世界には争いがなくなる」という意味です。このように、儒学の目標は天下が平和におさまることですが、そのためには、各個人が正しい行いをしていかなければならないというものです。
:儒学は、日本にも中国との交流とともに伝わりました。[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#漢字伝来|漢字の伝来]]の時に、王仁は儒教で最も重要な書物である『{{ruby|論語|ろんご}}』を『{{ruby|千字文|せんじもん}}』という書物とともに伝えたとされています。奈良時代から平安時代にかけての律令制の時代にも、儒教の学校がありました。また、鎌倉時代から室町時代にかけては、主に禅宗の寺院で、中国からの書物を使って研究がされていました。
:江戸時代になると、仏教から独立し学問として研究されるようになります。
:儒学の中でも、江戸時代に中心となったのは、13世紀に{{ruby|朱熹|しゅき}}が完成した{{ruby|朱子学|しゅしがく}}という学問です。朱子学は、国や社会の秩序を重んずるという特徴があり、明や清の国の学問となっていました。中国からの儒教に関する書物も朱子学のもので、また、朱子学は、家庭では親を大切にすること({{ruby|孝|こう}} - 「{{ruby|親'''孝'''行|おやこうこう}}」の「孝」です)と、主君にはさからわずつかえること({{ruby|忠|ちゅう}})が大事であるとといたので、下克上の世の中が終わって、安定した江戸時代の社会に合っていたのです。
:朱子学は、このように、江戸時代の学問の中心になったのですが、朱子学は形式ばった学問という特徴があって、{{ruby|実践|じっせん}}を重要と考えた{{ruby|陽明学|ようめいがく}}なども広く受け入れられました。
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|}</div>
;国学<span id="国学">
:[[File:本居宣長02.jpg|thumb|180px|本居宣長]]
:この時代、日本の古典についても研究が進み、朱子学など儒学に対抗する形で、日本古来の伝統を重要視する'''{{ruby|国学|こくがく}}'''が成立しました。国学の成立に大きく貢献したのが'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典‎‎#本居宣長|{{Ruby|本居宣長|もとおりのりなが}}]]'''です。国学は、のちの「'''{{ruby|尊王攘夷|そんのうじょうい}}'''」の考えなどに影響します
:国学の成立に大きく貢献したのが'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典‎‎#本居宣長|{{Ruby|本居宣長|もとおりのりなが}}]]'''です。宣長は、『[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#記紀|古事記]]』を研究し、その注釈書である『古事記伝』をあらわすなど、日本の古典を研究し、江戸時代当時の言葉で理解しやすいよう多くの注釈書などを著作しました。
:国学は、のちの「'''{{ruby|尊王攘夷|そんのうじょうい}}'''」の考えなどに影響します。
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;蘭学<span id="蘭学">
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</div>
;学問の実践
:'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典‎‎#伊能忠敬|{{ruby|伊能忠敬|いのうただたか}}]]'''は、天文学や測量術を学んだ他、独自に測量方法を工夫し、日本全国を訪れ、正確な日本地図『{{Ruby|大日本沿海輿地全図|だいにほんえんかいよちぜんず}}』を作りました。
:{{ruby|華岡青洲|はなおかせいしゅう}}は、独自に{{ruby|麻酔薬|ますいやく}}の研究をし、1804年世界で初めて、全身麻酔での外科手術を成功させました。
;教育
:[[File:Bungaku-Bandai_no-Takara-Terakoya-School-by-Issunshi-Hanasato.png|thumb|right|寺子屋のようす。]]
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:蘭学などは、蘭学者が塾を開き、そこで教えました。特に、医学については、身分に関係なく塾で学んで医者になることができました。
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;学問の実践
:'''[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典‎‎#伊能忠敬|{{ruby|伊能忠敬|いのうただたか}}]]'''は、天文学や測量術を学んだ他、独自に測量方法を工夫し、日本全国を訪れ、正確な日本地図『{{Ruby|大日本沿海輿地全図|だいにほんえんかいよちぜんず}}』を作りました。
:{{ruby|華岡青洲|はなおかせいしゅう}}は、独自に{{ruby|麻酔薬|ますいやく}}の研究をし、1804年世界で初めて、全身麻酔での外科手術を成功させました。
 
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{| style="border:2px solid #aabbdd; width:95%; border-radius: 4px;" cellspacing=0
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:そして、忠敬の弟子たちにより、とても正確な日本地図が、できあがりました。
[[File:Land-Surveyors-Edo-Period-Katsushika-Hokusai.png|thumb|350px|left|江戸時代の測量のようす]]
|}</div>
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|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="儒学"/>儒学・儒教<small>
:{{ruby|儒学|じゅがく}}は、中国で紀元前6世紀から5世紀に{{ruby|孔子|こうし}}という人が始めた教えです。宗教としての性格もあるので{{ruby|儒教|じゅきょう}}とも言います。
:儒学は、紀元前2世紀からずっと、中国の王朝で正統とされた学問です。内容を伝えることは、簡単ではありませんが、この教えの特徴をよく伝える『{{ruby|礼記|らいき}}<ref>儒学の重要な書物の一つです。</ref>』の言葉「{{ruby|修身|しゅうしん}}、{{ruby|斉家|せいか}}、{{ruby|治国|ちこく}}、{{ruby|平天下|へいてんか}}」をあげておきましょう。意味は、「自分の行動を正しくし、家族がばらばらではなく、国がおさまるようであれば、世界には争いがなくなる」という意味です。このように、儒学の目標は天下が平和におさまることですが、そのためには、各個人が正しい行いをしていかなければならないというものです。
:儒学は、日本にも中国との交流とともに伝わりました。[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#漢字伝来|漢字の伝来]]の時に、王仁は儒教で最も重要な書物である『{{ruby|論語|ろんご}}』を『{{ruby|千字文|せんじもん}}』という書物とともに伝えたとされています。奈良時代から平安時代にかけての律令制の時代にも、儒教の学校がありました。また、鎌倉時代から室町時代にかけては、主に禅宗の寺院で、中国からの書物を使って研究がされていました。
:江戸時代になると、仏教から独立し学問として研究されるようになります。
:儒学の中でも、江戸時代に中心となったのは、13世紀に{{ruby|朱熹|しゅき}}が完成した{{ruby|朱子学|しゅしがく}}という学問です。朱子学は、国や社会の秩序を重んずるという特徴があり、明や清の国の学問となっていました。中国からの儒教に関する書物も朱子学のもので、また、朱子学は、家庭では親を大切にすること({{ruby|孝|こう}} - 「{{ruby|親'''孝'''行|おやこうこう}}」の「孝」です)と、主君にはさからわずつかえること({{ruby|忠|ちゅう}})が大事であるとといたので、下克上の世の中が終わって、安定した江戸時代の社会に合っていたのです。
:朱子学は、このように、江戸時代の学問の中心になったのですが、朱子学は形式ばった学問という特徴があって、{{ruby|実践|じっせん}}を重要と考えた{{ruby|陽明学|ようめいがく}}なども広く受け入れられました。
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