「小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代」の版間の差分

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=== 平安遷都 ===
[[画像:HeiankyouMapJapanese.svg|right|500px]]
:7
:794年<ref>有名な年代暗記の語呂合わせに「鳴くよ(794)ウグイス平安京」「泣くよ(794)坊さん」平安京」があります。</ref>、{{Ruby|桓武|かんむ}}天皇は都を[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#平城京遷都|平城京]]から、'''{{ruby|平安京|へいあんきょう}}'''(現在の京都市)にうつしました(平安遷都)。政治の中心地が平安京であった、これから、約400年間の時代を '''{{Ruby|平安|へいあん}}時代''' といいます。平安時代は、前の飛鳥時代や奈良時代の約200年間に比べて、約400年間、政治の体制もほとんどかわらず、比較的安定していた時代ですが、ゆっくりとではあっても大きく変わった時代です。
:遷都の理由はよくわかっていません。以下に参考として、いくつかの説を紹介します。
:#遷都により人心の一新をはかった。
:#:770年、{{ruby|称徳|しょうとく}}天皇({{ruby|聖武|しょうむ}}天皇の皇女)が亡くなると、{{ruby|天武|てんむ}}天皇の子孫がたえて、[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#壬申の乱|壬申の乱]]以来、約100年ぶりに{{ruby|天智|てんち}}天皇の子孫である{{ruby|光仁|こうにん}}天皇(桓武天皇の父)が即位しました。称徳天皇の生前から天皇の地位をめぐって後継者争いや高位の貴族などの反乱がたえず、宮中の様子は不安をかかえたものになっていました。例としては、{{ruby|井上|いのえ/いがみ}}{{ruby|内親王|ないしんのう}}の事件<ref>光仁天皇の皇后井上内親王は聖武天皇の娘(内親王)であり、皇太子{{ruby|他戸|おさべ}}親王の生母でしたが、772年井上内親王が光仁天皇を呪い殺そうとしたという疑いで皇后をやめさせられ、皇太子も山部親王(後の桓武天皇)に代えられた。さらに翌年別の罪に問われ、他戸親王とともに、閉じ込められたのち、775年母娘ともに亡くなります。翌年から天災地変がしきりに起こり、井上内親王・他戸親王の{{ruby|怨霊|おんりょう}}と恐れられ、また井上内親王は竜になったという噂が立ちました。光仁天皇は二人の名誉を回復し、墓を立派にして、鎮魂のための寺や神社をつくりました。</ref>、{{ruby|早良|さわら}}{{ruby|親王|しんのう}}の事件<ref>781年桓武天皇が即位すると、すぐに遷都を命じ、784年に建設途中の{{ruby|長岡京|ながおかきょう}}(現在の京都府長岡京市)に遷都しました。新たな都でも事故が続き、桓武天皇の近臣{{ruby|藤原種継|ふじわらのたねつぐ}}が殺されると、皇太弟の早良親王が疑われ、皇太弟を廃された上、{{ruby|流罪|るざい}}となり、直後に流罪地でなくなりました。その後、桓武天皇の母親や妃、近臣が相次いで病死し、疫病が流行るなどして早良親王の怨霊のしわざと噂され、桓武天皇は長岡京遷都を中止しました。</ref>があげられます。
:#[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#奈良仏教|平城京では寺の勢力が強くなりすぎた]]ため、それからのがれようとした。
:#:平城京には、東大寺をはじめとして、多くの寺があり、各々の寺は広い農場(田)を持っていました。また、皇室や藤原氏などとも近く、政治に大きな影響を与えるようになっていました。桓武天皇はこれをきらったのではないかと言われています。そのためか、奈良から平安京への寺院の移転は禁止され、平安京の中には東寺と西寺のふたつしか建てられませんでした<ref>京都市には、現在全国的に有名で大きなお寺がいくつもありますが、このほとんどは、これから500年後の室町時代以降に建てられたものです。</ref>。
:#その他、以下の理由をあげる人たちもいます。
:#*大仏建立により、銅などを溶かすために奈良盆地周囲の森を大量に{{ruby|伐採|ばっさい}}し、山崩れが多発したり、金属加工時の排水や、メッキに使う水銀の汚染など環境が悪くなった。
:#*人口が増える一方で、土地の{{ruby|開墾|かいこん}}が進まず、田を割り当てられなくなった(くわしくは、次に説明します)。
{{-}}
=== 貴族の台頭・荘園の発生と拡大 ===
:律令制の役人の多くは、貴族であって<ref>律令には、{{ruby|家柄|いえがら}}にかかわらず、能力に応じて役人として採用し役職につけることが決められていましたが、実際は、文字(漢字)の読み書きができるような教育をうけさせられる家はごくわずかでしたし、親が役人であれば子が役人になりやすい仕組みもあって、役人を出せる一族はほぼきまっていました。</ref>。[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#班田収授|役人になると官位や役職に応じて、何十倍から何百倍もの広い農地がわりあてられ]]、そこからの収穫が報酬となりましたが、代々役人をつとめることで、貴族は富をたくわえていきました。
:貴族<span id="貴族"/>には、天皇家の子孫(源氏、平氏、在原氏、清原氏など)や、大和政権からの豪族や部民の子孫(安倍氏、大伴氏、紀氏、菅原氏など)、天皇の近臣の子孫(橘氏など)がありましたが、中でも有力であったのは'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#中臣鎌足(なかとみのかまたり)|藤原(中臣)鎌足]]|ふじわら(なかとみ)のかまたり}}'''の子孫である'''{{ruby|藤原|ふじわら}}氏'''です。
:[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#班田収授|班田収授法]]は、朝廷が管理する土地(公地)が不足して、奈良時代の初期にはすでに続けるのがむずかしくなっていました。奈良時代中期には、税を確保するために、[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#墾田永年私財法|墾田永年私財法]]が出されて新たに{{ruby|開墾|かいこん}}された土地は、開墾した者の土地になることになりました。
:このような開墾は、もともと豊かな貴族、大きな寺や神社(寺社)でなければできないことで、貴族や寺社は開墾を行うことで[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#班田収授|朝廷が行う田の割り当て(班田)]]にたよらず、農地(田)をもつことができるようになり、そこで、貴族や寺の召使い({{ruby|家人|けにん}})など<ref>その他、良い{{ruby|口分田|くぶんでん}}が割り当てられなかった農民なども、口分田を捨てて、家人などになることもありました。</ref>に田を耕させるようになりました。このような、農地などを'''{{ruby|荘園|しょうえん}}'''<span id="荘園"/>といいます<ref>荘園は、農地(田)だけではなく、それをたがやす農民の住まいや、周辺の山林もふくみました。</ref>。
:荘園が成立する一方、{{ruby|口分田|くぶんでん}}でわりあてる土地不足の問題は解決しませんでした。また、戸籍や土地台帳の管理はむずかしく、8世紀末には、班田収授法は実施できなくなってしまいました。口分田は、そのまま、たがやしていた農民<span id="名主"/>が自分のものとして、朝廷に税をおさめるようにかわりました。同時に、役人への農地のわりあてもなされなくなり、役人は朝廷からの収入だけでは豊かな生活ができなくなりました。
:最初は、荘園に税がかけられない、寺社などが荘園を広げていきました<ref>貴族は、もともと朝廷からの報酬があるうえに、開墾した荘園は税を納めなければならなかったので、最初のうちは開墾に熱心ではありませんでした。</ref>。その後、9世紀頃になると、役人、特に国司など地方の役人などは、荘園から朝廷に税を払って、その中から役人に報酬を払うのは無駄だということで<ref>地方から、京都へ税である米などを運ぶつとめも民衆にはありました。</ref>、税として朝廷に運ばず、直接役人である貴族が受け取るということができるようになり、その考え方を有力な貴族が広げて、寺社に加えて、一部の貴族の荘園からも朝廷に税をおさめなくなりました<ref>税を納めないことを、「{{ruby|不輸|ふゆ}}」といい、そうすることができることを「不輸の{{Ruby|権|けん}}」と言います。「輸」は「はこびだす」と言う意味ですから「(税を)はこびださない」と言うことです。</ref>。
:そうすると、<u>田を持っている農民や自ら開墾した荘園を持っている地方豪族などは、自らの荘園を有力な貴族や寺社に寄付して</u><span id="寄進"/>、収穫の一部を差し出し、それよりも多い税を逃れようとします。11世紀頃には、これが進んで朝廷が税を取れる土地<ref>「荘園」に対してこれを「'''{{ruby|公領|こうりょう}}'''」といいます。</ref><span id="公領"/>と荘園はほぼ同じ規模となりました。また、税をおさめないと言うことは、朝廷の役人の立ち入りも必要ないであろうと言うことで、荘園に役人が入れなくなりました<span id="不入"/><ref>これを「{{ruby|不入|ふにゅう}}(=はいらない)」といい、そうすることができることを「不入の権」と言います。「不輸」とあわせて、「{{ruby|不輸不入|ふゆふにゅう}}の権」といい、荘園の特徴とされます。</ref>。こうして、荘園は朝廷から独立したもののようになりました。
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】「{{ruby|名田|みょうでん}}」と{{ruby|名字|みょうじ}}(苗字)の話'''<small>
:<span id="名田"/>上に書いたように、8世紀末には「[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#班田収授|班田収授法]]」は、実施できなくなっていました。では、その後の田んぼは誰がたがやしていったのでしょうか。
:「班田収授法(公地公民)」は、人に田をわりあて、その収穫から税をとるという仕組みでした。そのため、朝廷は、戸籍をつくって人を管理していましたが、人口の増減に追いつくことができず、うまくいかなくなりました。朝廷は税が取れないと政治ができませんので、とにかく、税を取ろうとします。ここで、[[小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代#墾田永年私財法|墾田永年私財法]]を思い出してください。開墾した土地は、朝廷に返さなくてもよいかわりに、税を払い続けるというものでした。これと同じように、今まで割り当てていた田(口分田)も、わりあてをやめて、誰がたがやしていても、その土地からきまった税({{ruby|年貢|ねんぐ}})を取るようになりました。このような土地(田)の大きさは、[[#名主|もともと口分田がわりあてられていた、家族だけでたがやす小さなもの]]<ref>それでも、昔は一家族の人数は多かったので、2町(約2ヘクタール)程度の広さはあったでしょう。なお、現代日本の農家の平均農地面積は約1ヘクタール、専業農家で約2ヘクタールです。</ref>から、貴族や地方豪族の親族などで数多くの{{ruby|家人|けにん}}などを使った大きなものまでさまざまでした。そのように税を取りまとめる土地(田)の広がりを「{{ruby|名|な}}が『◯○』さんという人が税をはらう土地(田)」ということで、「○○の{{ruby|名|みょう}}」というようになり、のちに、「『◯○』さん」とは関係なくなって、単に「{{ruby|名|みょう}}」または「{{ruby|名田|みょうでん}}」というようになりました。「{{ruby|名|みょう}}」で、税をはらう責任者になっていたのが「{{ruby|名主|みょうしゅ}}」(または、{{ruby|名主|なぬし}})で、土地が小さければ「'''{{ruby|小名|しょうみょう}}'''」、土地が大きければ「'''{{ruby|大名|だいみょう}}'''」と呼ばれるようになりました。
:{{ruby|名田|みょうでん}}は、もともと朝廷の土地(公地)の仕組みでしたが、やがて、荘園にも、この仕組みがとりいれられます。荘園の多くは最初は、貴族や寺の{{ruby|家人|けにん}}などにより開墾されましたが、その後の耕作も彼らが引きつづいておこない、朝廷への税にかえて、荘園領主への年貢をおさめるようになっており、{{ruby|家人|けにん}}のなかから{{ruby|名主|みょうしゅ}}と同じ役割をはたすものも出てきたのです。さらに、[[#寄進|荘園が大きくなるときに、寄付をした農民や地方豪族]]が、寄付をした田を{{ruby|名田|みょうでん}}として、自分は{{ruby|名主|みょうしゅ}}となりました。
:さて、このように公領や荘園は{{ruby|名田|みょうでん}}という仕組みになったのですが、10世紀頃から、姓名とは別に、みずからの所領「{{ruby|名|みょう}}」に通称「{{ruby|字|あざな}}」をならべてよびかけることが広まっていきました。 例えば、武士の{{ruby|平良文|たいらのよしふみ}}という人は、{{ruby|相模|さがみ}}(現在の神奈川県)の{{ruby|村岡|むらおか}}というところの{{ruby|名主|みょうしゅ}}で、兄弟で5番目だったことから「{{ruby|村岡五郎|むらおかのごろう}}」と自称しました。このように、おさめた土地から、つけられた名前を「'''{{ruby|名字|みょうじ}}'''(苗字)」といい、「{{ruby|姓|せい}}」とともに「{{ruby|名|みょう}}」が一族の集まりを意味するようになります。これが、今の「'''みょうじ'''」の元になっています。今は「姓」と「みょうじ」は同じものですが、昔は別のものでした。
:<span id="なのり"/>ここで、昔の人(平安時代末期から江戸時代まで)の名前が、どのようなものであったかをみてみましょう。以下は、次の章に登場する{{ruby|源頼朝|みなもとのよりとも}}の妻の父の名前です。
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| class="wikitable" style="width:80%; text-align:center"
| style="width:16%" |{{ruby|北条|ほうじょう}}
| style="width:16%" |{{ruby|四郎|しろう}}
| style="width:16%" |{{ruby|平|たいらの}}
| style="width:16%" |{{ruby|朝臣|あそん}}
| style="width:16%" |{{ruby|時政|ときまさ}}
|-
| {{ruby|名字|みょうじ}}<br>「家」「家系」の名前
| {{ruby|通称|つうしょう}}<br>普段呼ばれる名前
| {{ruby|本姓|ほんせい}}<br>出身一族
| {{ruby|姓|かばね}}<br>出身一族の位
| {{ruby|諱|いみな}}<br>本名
|-
| style="text-align:left" | 「名田」などに由来する「家」の名前です。
| style="text-align:left" | よく変わります。後の時代、役職を持つなどすると、通称で呼ぶのは失礼にあたるため、しばしば官職で呼ぶようになります。
| style="text-align:left" | 奈良時代以前からの[[#貴族|貴族]]の一族の呼び名です。<br>「たいら'''の'''」や「ふじわら'''の'''」のように「の」が入ります。
| style="text-align:left" | 「本姓」ごとに定められた{{ruby|位|くらい}}です。
| style="text-align:left" | 公文書に用いめったに使いません。
|}
</div>
 
</small>
|}</div>
 
=== 摂関政治 ===
[[File:Fujiwara no Michinaga Face.svg|thumb|{{Ruby|藤原道長|ふじわらのみちなが}}]]
:藤原氏の初代[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#中臣鎌足(なかとみのかまたり)|藤原鎌足]]は、大化の改新を[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)|天智天皇(中大兄皇子)]]とともになしとげた、天智天皇から最も信頼の厚い家臣でした。鎌足の子の藤原{{Ruby|不比等|ふひと}}は、律令の制定や平城京遷都に大きくかかわり、また、[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#聖武天皇(しょうむてんのう)|聖武天皇]]の母の父で、聖武天皇の皇后光明皇后の父と言う関係にありました。不比等の孫の藤原{{Ruby|百川|ももかわ}}は、称徳天皇の死後、光仁天皇や桓武天皇の即位に力をつくしました。
:このように、平安時代以前においても、'''藤原氏'''は、天皇の近くにあって、天皇をもり立ててきました。
:平安時代に入ると、藤原氏は、つぎつぎと娘を天皇の{{ruby|妃|きさき}}(妻)にし、この子が天皇になるなど、天皇家との関係を深めました。一方で、藤原氏以外の貴族については、様々な手段で排除され、10世紀には高位の貴族は藤原氏だけと言うことになりました。<span id="下向"/>中央で役職を得られない貴族の中には、地方に荘園を開いて移住する者もいました。
:藤原氏は、天皇がおさないときは'''{{Ruby|摂政|せっしょう}}'''という役で、天皇が成人してからは'''{{Ruby|関白|かんぱく}}'''という役で天皇に代わって政治を行いました。このような政治を、「摂政」と「関白」から、「'''{{Ruby|摂関|せっかん}}政治'''」といいます<ref>藤原氏も、時代がくだってくると多くの家に分かれます。その中で、ずっと、天皇のそばにいて摂政や関白を出した家を、{{Ruby|摂関家|せっかんけ}}<span id="摂関家"/>といいます。</ref>。
:摂関政治の代表的な藤原氏に11世紀の人である'''{{Ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#藤原道長(ふじわらのみちなが)|藤原道長]]|ふじわらのみちなが}}'''がいます。
:道長は、娘四人を天皇の{{ruby|妃|きさき}}とし、その娘が産んだ三人の孫が天皇になり、藤原氏の全盛期をきずいたと言われます。
:道長は、このようなありさまを、以下のように和歌にしたと伝えられます。
:'''「この世をば わが世とぞ思{{ruby|ふ|(う)}} {{ruby|望月|もちづき}}の 欠けたることも なしと思{{Ruby|へ|(え)}}ば」'''
::(この世は、望月(満月)のように欠けているものがなく、まるで{{ruby|私|わたし}}(道長)の物のようだ。)
:しかし、道長の子{{ruby|頼通|よりみち}}が天皇の{{ruby|妃|きさき}}にした娘には男子が生まれず、天皇の祖父という立場はなくなり、それ以降、影響力を失っていきます。また、朝廷そのものが力を失っていきます。
 
== 平安時代の文化と生活 ==