「小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代」の版間の差分

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::;「{{ruby|金売|かねう}}り{{ruby|吉次|きちじ}}」の話
:::この時、義経を秀衡のもとに送りとどけたのは、{{ruby|金売|かねう}}り{{ruby|吉次|きちじ}}という商人だったと言われています。吉次は秀衡から秀衡の領内でとれた砂金をあずかり、京に上がって都のものを買い集め平泉までもどるという商いをしていました。吉次も弁慶同様架空の人物ではないかとされますが、当時の東北地方が金を産出し、それを京で取引していたのは明らかになっていて、吉次のように金を商っている奥州からやって来た商人がいたとおもわれます。
:1180年頼朝が平家をうつ兵を上げると、頼朝のもとに向かいます。頼朝は喜んで、義経にもう一人の弟範頼とともに、遠征軍の指揮をとらせました。義経は、馬を使った{{ruby|奇襲|きしゅう}}など<ref>馬では越えられないと思われていた{{ruby|崖|がけ}}を馬で下り降り,平氏の陣の後方に出て、平氏をはさみうちにした『{{ruby|鵯|ひよどり}}{{ruby|越|ご}}え』などが有名です。</ref>で、義仲や平氏の軍を次々とやぶりました。これに喜んだ[[#後白河法皇|後白河法皇]]は、義経に{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/貴族の文化-平安時代#検非違使|検非違使]]|けびいし}}の判官<ref>普通は「はんがん」と読みますが、義経に関する場合「ほうがん」と読みます。</ref>に任じます。義経を九男の判官ということで「{{ruby|九郎判官|くろうほうがん}}」とも呼びます。そして、壇ノ浦の戦いに勝利し平氏をほろぼした義経は、英雄として京都の法皇らに迎えられ、その後、鎌倉に向かいます。しかし、意外なことに頼朝は会おうとしません。頼朝は、自分の許しなく義経が法皇から官位をもらったことに怒っていました。頼朝は、武士の評価は、武士の棟梁だけが行うことで、武士の社会を棟梁中心にしなければならないと考えていたからです。
[[File:NDL-DC 1301812 Toyohara Kunichika cmb.jpg|thumb|250px|歌舞伎の演目『勧進帳』を描いた江戸時代の浮世絵]]
:こうして、頼朝と対立した義経は、京都にもどり頼朝をうつ兵を上げますが敗れて、北陸をへて平泉に逃げようとします。この逃げる途中の伝説が「{{ruby|安宅|あたか}}の{{ruby|関|せき}}」または「{{ruby|勧進帳|かんじんちょう}}」といわれるものです。
:義経は、秀衡のもとにのがれますが、頼朝は平泉へ討伐の兵を出します。秀衡の死後、1189年、秀衡の子{{ruby|藤原泰衡|ふじわらやすひら}}は、これをおそれ、義経をせめころし<ref>伝説では、義経がこもる屋敷の前でこれを守ろうと、弁慶が立ちはだかり、多くの矢を受け、立ったまま亡くなった({{ruby|往生|おうじょう}}した)とあり、これを、「弁慶の立ち往生」といい「'''立ち往生'''」という言葉の由来となっています。</ref>、その首を鎌倉におくりました。なお、その後、奥州藤原氏は、結局、頼朝によってほろぼされました。
:その後、結局、奥州藤原氏は、頼朝によってほろぼされました。
:義経は、戦さで鮮やかな{{ruby|活躍|かつやく}}をして平氏をせめほろぼしたのに、兄頼朝の怒りにふれ悲劇的な{{ruby|最期|さいご}}<ref>「死ぬこと」、「死ぬ時」のことです。「最後」と間違えないようにしましょう。</ref>をむかえることになりました。後の世の人々は、これに同情するなどあって、義経の人気は非常に高いものがあります。このように、弱いものに味方することを、義経にちなんで「{{ruby|判官|ほうがん}}びいき」といいます。
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|}</div>
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|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="将軍"/>{{ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}}について'''<small>
:{{ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}}とは、「{{ruby|'''夷'''人|いじん}}」または「{{ruby|蝦'''夷'''|えみし}}」を討伐すために任命された将軍で、794年に最初の任命がありました。「夷人・蝦夷」とは、当時、東北地方東部に住んで、朝廷に従わなかった人々をいいます。アイヌ系の人々であったろうと言われています。征夷大将軍として活躍したのは{{ruby|坂上田村麻呂|さかのうえのたむらまろ}}で、蝦夷を平定したことで軍人の象徴となりました。
:征夷大将軍自体は、もともと、軍人として最高の地位<ref>最高の地位は{{ruby|近衛大将|このえだいしょう}}で、頼朝は征夷大将軍になる前に一度任命されてすぐにやめています。</ref>ではなく、太政大臣や左大臣・右大臣はもちろん、大納言や各省の長官(卿)より下位の職でしたが、もともと戦争が起こった時の戦場の司令官という地位なので、戦場では他の誰の命令にもしたがわなくてよいという性格があります。'''{{ruby|幕府|ばくふ}}'''というのは、'''{{ruby|幕|まく}}'''で囲まれたテントのような仮の建物を意味し、戦場に仮に建てられた将軍などがいる場所のことです。
:征夷大将軍は、頼朝より後は、全ての武士の棟梁をいうようになり、それが、日本の政治の頂点を意味するようになります。
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:将軍は、御家人たちの土地の権利を保証する(これを「'''ご{{ruby|恩|おん}}'''」とよびます)かわりに、御家人たちは将軍のために鎌倉や京都の警護にあたったり、戦争の時には戦ったりしなければなりませんでした(これを「'''{{ruby|奉公|ほうこう}}'''」と呼びます)。このような{{ruby|主従|しゅじゅう}}関係を、 '''ご恩と奉公''' といいます。
:「'''いざ鎌倉'''」といって、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていました([[#いざ鎌倉|コラム参照]])。
:「{{ruby|一生懸命|いっしょうけんめい}}」という言葉のもととなった、「{{ruby|一所懸命|いっしょけんめい}}」という言葉がありますが、これは、御家人たちが自分たちの領地(「{{ruby|一所|いっしょ}}」)を守るために命がけ(「{{ruby|懸命|けんめい}}」 - 命を{{ruby|懸|か}}ける)で戦う様子からできた言葉です<ref>なお、これが転じて「{{ruby|一生|いっしょう}}懸命」となりました。</ref>
:1232年、このような土地の扱いや犯罪と処罰について明確にするよう、「'''{{ruby|御成敗式目|ごせいばいしきもく}}'''」という法律が作られました。
:<span id="鎌倉御家人"/>なお、武士のすべてが、御家人というわけではありません。御家人とは、あくまでも将軍との間にご恩奉公の関係のある武士をいいます。その数ですが、13世紀末だと500人くらいだったと言われています。もちろん、それだけでは戦争など行けませんから兄弟や親類、代々の家来など(これを、'''{{ruby|一族郎党|いちぞくろうとう}}'''といいます)をしたがえます。御家人は江戸時代でいうところの大名を想像すればよいかと思います。また、公家や寺社の荘園に、武装して{{ruby|荘官|しょうかん}}としてつかえる武士のように、御家人でも、御家人の一族郎党でもなく、したがって幕府とかかわりの少ない武士もいました。