「小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代」の版間の差分

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:「改新の{{ruby|詔|みことのり}}」に、「[[#国|各地の豪族(国造や県主など)がおさめていた地域を、いくつかにまとめ「'''{{ruby|国|くに}}'''」として朝廷から役人を'''{{ruby|国司|こくし}}'''として送り統治します。]]」とありましたが、大宝律令の{{ruby|令|りょう}}によって、これがほぼ確定しました。「{{ruby|国|くに}}」はいろいろな意味を持っていますので、歴史の学習では、これを、「{{ruby|令|りょう}}で決めた国」という意味で「{{ruby|令制国|りょうせいこく}}」と呼んでいます。また、令制国の名を「{{ruby|旧国名|きゅうこくめい}}」ということがよくあります。
:令制国は、今の都府県(北海道と沖縄県はそのころは朝廷の支配はおよんでいませんでした)と同じくらいの広さを持つ地域です。今の県の中には、元々令制国の領域をそのまま県の領域にしたものもあります。たとえば、県の歌が『{{ruby|信濃|しなの}}の国』である長野県は「{{ruby|信濃|しなの}}」という令制国でした。同じような例は{{ruby|甲斐|かい}}(山梨県)、{{ruby|美濃|みの}}(岐阜県)、{{ruby|讃岐|さぬき}}(香川県)、{{ruby|日向|ひゅうが}}(宮崎県)など多数あります。また、{{ruby|陸奥|むつ}}(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県の一部)、{{ruby|武蔵|むさし}}(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)のように令制国が複数の都府県に分割されたり、{{ruby|伊豆|いず}}、{{ruby|駿河|するが}}、{{ruby|遠江|とおとうみ}}で静岡県となった複数の令制国が一つの県になった例もあります。兵庫県は{{ruby|摂津|せっつ}}の西部、{{ruby|播磨|はりま}}、{{ruby|但馬|たじま}}、{{ruby|丹波|たんば}}の西部、{{ruby|淡路|あわじ}}など多数の令制国からできています。令制国は古くからありますから、同じ県でも住んでいる人々の気質が違うとはよく言われるところです。皆さんも今住んでいるところが、令制国ではなんと呼ばれていたか調べてみましょう。
:令制国の名前は、昔からの地名に漢字2文字をあてて名づけられました。3文字のものから1文字けずったり<ref>(例){{ruby|上毛野|かみつけの}}→{{ruby|上野|こうずけ}}(群馬県)・{{ruby|下毛野|しもつけの}}→{{ruby|下野|しもつけ}}(栃木県)。現在の、群馬県と栃木県はあわせて「{{ruby|毛野|けの}}の国」と呼ばれていました。それが、西の都に近い方から「上毛野」「下毛野」と名付けられ、さらに、2文字にしたものです。</ref>、1文字のものに1文字くわえたり<ref>(例)和→{{ruby|大和|やまと}}(奈良県)・泉→{{ruby|和泉|いずみ}}(大阪府南部)</ref>しました。また、元々大きな国をいくつかに分けて、都に近い方から「前・中・後<ref>(例){{ruby|越|こし}}の国→{{ruby|越前|えちぜん}}(福井県 さらに越前国からは、{{ruby|加賀|かが}}、{{ruby|能登|のと}}(石川県)が分けられます)・{{ruby|越中|えっちゅう}}(富山県)・{{ruby|越後|えちご}}(新潟県)、{{ruby|吉備|きび}}の国→{{ruby|備前|びぜん}}(岡山県東部)・{{ruby|備中|びっちゅう}}(岡山県西部)・{{ruby|備後|びんご}}(広島県東部)</ref>」「上・下<ref>(例){{ruby|総|ふさ}}の国→{{ruby|上総|かずさ}}(千葉県中部)・{{ruby|下総|しもうさ}}(千葉県北部・茨城県南部):当時は東京湾を渡って房総半島を北上する道が通常の道でした。</ref>」をつけるやり方もありました。
:また、「旧国名」の一部、たとえば、{{ruby|長門|ながと}}(山口県北部)の「長」をとって、「{{ruby|州|しゅう}}」の字をつけ、別名を「{{ruby|長州|ちょうしゅう}}」とする呼び方もよくされています。
:「旧国名」は、今でも日常的生活でよく使います。地名では、{{ruby|大隅|おおすみ}}半島、{{ruby|信濃|しなの}}川、{{ruby|'''武蔵'''村山|むさしむらやま}}市などがあり、{{ruby|安'''芸'''|あき}}(広島県西部)と{{ruby|伊'''予'''|いよ}}(愛媛県)の間の海峡は{{ruby|芸予|げいよ}}海峡といいます。また、サツマイモは{{ruby|薩摩|さつま}}(鹿児島県)から全国に普及した芋ですし、香川県の名物は{{ruby|讃岐|さぬき}}うどんです。{{ruby|'''紀'''伊|きい}}(和歌山県・三重県南部)と{{ruby|伊'''勢'''|いせ}}(三重県北中部)を結ぶ鉄道の路線は{{ruby|紀勢|きせい}}本線と言います。身の回りに「旧国名」に関係するものがないか探してみてください。
:また、役人の国司がいた地域を{{ruby|国府|こくふ}}<span id="国府"/>といいますが、これにちなむ地名も全国に見られます。「国府」のついた地名({{ruby|国府台|こうのだい}}とかありますね)や{{ruby|府中|ふちゅう}}などがそうです。さらに、国府の近くには、下に述べる[[#国分寺|国分寺や国分尼寺]]が建てられましたが、これにちなんだ「国分寺」や「国分」という地名もよくみることができます。
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|}</div>
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[[File:Emperor Shomu Face.svg|thumb|180px|聖武天皇]]
:<span id="奈良仏教"/>8世紀のなかごろ、都では病気が流行し、多くの死者が出たり、さらに、貴族の反乱が起きたりしたため、世の中に不安が広がりました。仏教を深く信じた'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#聖武天皇(しょうむてんのう)|聖武天皇]]|しょうむてんのう}}'''は、仏教の力を借りて人々の不安をしずめ、社会を安定させようとしました<ref>仏教に対する、このような考えを{{ruby|鎮護国家|ちんごこっか}}といいます。</ref>。
:まず741年に国ごとに<span id="国分寺"/>'''{{ruby|国分寺|こくぶんじ}}''''''{{ruby|国分尼寺|こくぶんにじ}}'''<ref>国分寺は男性のお坊さん(僧侶)の寺、国分尼寺は女性のお坊さん({{ruby|尼|あま}}さん、{{ruby|尼僧|にそう}})の寺です。この当時、僧になるには({{ruby|出家|しゅっけ}})、調停の許可が必要で、僧侶や尼僧は一種の役人でした。</ref>を建てさせました。そして、都には国分寺の総本山として{{ruby|東大寺|とうだいじ}}を建てさせ、そのなかに銅製の'''大仏'''を作らせました。そのころには、この巨大な仏像(高さ約15m、周囲約70m)を作る金属加工の技術はありましたが、これほど大きな仏像を作った経験はなかったため、建立には苦労をきわめ、752年の完成まで7年かかりました。
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[[File:Gyouki Face.jpg|thumb|180px|行基]]