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[[w:中国|中国]]は世界で最も古く[[w:文明|文明]]が現れた地域の一つで、5000年から3500年前頃を文明の時期として扱われることが多い。
 
==概略==
===先史時代===
中国では、古くから文明が発達した。中国文明と呼ばれるものは、大きく分けて[[w:黄河文明|黄河文明]]と[[w:長江文明|長江文明]]の2つがある。黄河文明は、[[w:畑作|畑作]]が中心、長江文明は[[w:稲作|稲作]]が中心であった。黄河文明が、歴史時代の[[w:殷|殷]]や[[w:周|周]]につながっていき、中国の歴史の中軸となった。長江文明は次第に、黄河文明に同化吸収されていった([[黄河文明・長江文明]])。
 
===先秦時代===
中国最古の王朝としては、伝説上では[[w:三皇五帝|三皇五帝]]や[[w:夏 (三代)|夏]]が知られている。しかし、実在が確認できるのは殷だけである。殷では、王が占いによって政治を行っていた([[w:神権政治|神権政治]])。
 
[[w:紀元前1046年|紀元前1046年]]頃に殷を滅ぼした周は、各地の有力者や王族を[[w:諸侯|諸侯]]として、土地を与えた。これを[[w:封建制|封建制]]という。しかし、周王朝は徐々に弱体化し、異民族に攻められ、[[w:紀元前770年|紀元前770年]]には成周へ[[w:遷都|遷都]]した。これ以降を[[w:春秋時代|春秋時代]]と呼ぶ。春秋時代には、周王朝の権威はまだ残っていたが、[[w:紀元前403年|紀元前403年]]から始まるとされる[[w:戦国時代 (中国)|戦国時代|]]には、周王朝の権威は無視されるようになる。
 
[[w:春秋戦国時代|春秋戦国時代]]は、諸侯が争う戦乱の時代であった。しかし、各諸侯国は[[w:富国強兵|富国強兵]]に努め、商工業が発達し、[[w:貨幣|貨幣]]も使用されるようになった。また、この時代に[[w:鉄器|鉄器]]が普及したこともあいまって、農業生産も増大した。また、このような戦乱の世をどのように過ごすべきかという思想がさまざまな人たちによって作られた。このような思想を説いた人たちを[[w:諸子百家|諸子百家]]という。諸子百家の中でも、[[w:道家|道家]]や[[w:孔子|孔子]]・[[w:孟子|孟子]]に代表される[[w:儒家|儒家]]は、後の[[w:中華思想|中国思想]]の中心となった。
 
===秦漢帝国===
現在の[[w:陝西省|陝西省]]あたりにあった[[w:秦|秦]]は、戦国時代に着々と勢力を伸ばした。勢力を伸ばした背景には、厳格な法律で人々を統治しようとする[[w:法家|法家]]の思想を採用して、富国強兵に努めたことにあった。[[w:始皇帝|秦王政]]は、他の6つの列強を次々と滅ぼし、[[w:紀元前221年|紀元前221年]]には史上はじめての中国統一を成し遂げた。秦王政は、自らの偉業をたたえ、王を超える称号として[[w:皇帝|皇帝]]を用い、自ら'''始皇帝'''と名乗った。
 
始皇帝は、法家の[[w:李斯|李斯]]を登用し、[[w:中央集権|中央集権]]化を推し進めた。このとき、中央から派遣した役人が全国の各地方を支配する[[w:郡県制|郡県制]]が施行された。また、文字・貨幣・[[w:度量衡|度量衡]]の統一も行われた。さらに、当時[[w:モンゴル高原|モンゴル高原]]に勢力をもっていた[[w:遊牧民族|遊牧民族]]の[[w:匈奴|匈奴]]を防ぐために[[w:万里の長城|万里の長城]]を建設させた。さらに、軍隊を派遣して、匈奴の南下を抑えた。また、嶺南地方(現在の広東省)にも軍を派遣し、この地にいた百越諸族を制圧した。しかし、このような中央集権化や土木事業・軍事作戦は人々に多大な負担を与えた。そのため、[[w:紀元前210年|紀元前210年]]に始皇帝が死ぬと、翌年には[[w:陳勝・呉広の乱|陳勝・呉広の乱]]という農民反乱がおきた。これに刺激され各地で反乱がおき、ついに秦は[[w:紀元前206年|紀元前206年]]に滅びた。
 
秦が滅びたあと、[[w:劉邦|劉邦]]と[[w:項羽|項羽]]が覇権をめぐって争った([[w:楚漢戦争|楚漢戦争]])が、[[w:紀元前202年|紀元前202年]]には、劉邦が項羽を破り、[[w:前漢|漢]]の皇帝となった。劉邦は、始皇帝が急速な中央集権化を推し進めて失敗したことから、一部の地域には親戚や臣下を王として治めさせ、ほかの地域を中央が直接管理できるようにした。これを[[w:郡国制|郡国制]]という。しかし、[[w:紀元前154年|紀元前154年]]には、各地の王が中央に対して[[w:呉楚七国の乱|呉楚七国の乱]]と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、結果として、中央集権化が進んだ。[[w:紀元前141年|紀元前141年]]に即位した[[w:武帝 (漢)|武帝|]]は、国内の安定もあり、対外発展を推し進めた。武帝は匈奴を撃退し、[[w:シルクロード|シルクロード]]を通じた西方との貿易を直接行えるようにした。また、[[w:朝鮮半島|朝鮮半島]]北部、[[w:ベトナム|ベトナム]]北中部にも侵攻した。これらの地域はその後も強く中国文化の影響を受けることとなった。また、武帝は[[w:董仲舒|董仲舒]]の意見を聞いて、[[w:儒教|儒教]]を統治の基本とした。これ以降、中国の王朝は基本的に儒教を統治の基本としていく。
 
しかし、度重なる軍事行動は、人々の生活を苦しめた。[[w:8年|8年]]には、[[w:王莽|王莽]]が皇帝の位を奪って、一旦漢を滅ぼした。しかし、王莽の政治はよくなかったので、各地で反乱が起きた。結局、漢の皇族の血を引く[[w:光武帝|劉秀|]]が、漢を復興させた。この劉秀が建てた漢を[[w:後漢|後漢]]という。王朝初期には雲南に進出し、また、西域に班超を派遣し、シルクロードをおさえた。だが、後漢は豪族の連合政権的なところがあり、政治は安定しなかった。
 
===魏晋南北朝時代===
[[w:後漢|後漢]]末期の[[w:184年|184年]]には、[[w:黄巾の乱|黄巾の乱]]と呼ばれる農民反乱がおきた。これ以降、[[w:隋|隋]]が[[w:589年|589年]]に中国を再統一するまで、一時期を除いて中国は分裂を続けた。この隋の再統一までの分裂の時代を[[w:魏晋南北朝時代|魏晋南北朝時代]]という。また、この時期には[[w:日本|日本]]や[[w:朝鮮|朝鮮]]など中国周辺の諸民族が独自の国家を形成し始めた時期でもある。
 
黄巾の乱が鎮圧されたあと、[[w:豪族|豪族]]が各地に独自政権を立てた。中でも有力であったのが、[[w:漢|漢]]王朝の皇帝を擁していた[[w:曹操|曹操]]である。しかし、中国統一を目指していた曹操は、[[w:208年|208年]]に[[w:赤壁の戦い|赤壁の戦い]]で、江南の豪族[[w:孫権|孫権]]に敗れた。結局、曹操の死後、[[w:220年|220年]]に曹操の子の[[w:曹丕|曹丕]]が後漢の[[w:皇帝|皇帝]]から皇帝の位を譲られ、[[w:魏 (三国)|魏]]を建国した。これに対して、[[w:221年|221年]]には、現在の[[w:四川省|四川省]]に割拠していた[[w:劉備|劉備]]が皇帝となり、[[w:蜀|蜀]]を建国した。さらに、江南の孫権も[[w:229年|229年]]に皇帝と称して、[[w:呉 (三国)|呉]]を建国した。この魏・呉・蜀の三国が並立した時代を[[w:三国時代 (中国)|三国時代]]という。
 
三国の中で、もっとも有力であったのは魏であった。魏は、官吏登用法として、[[w:九品官人法|九品官人法]]を採用した。これは、当初の目的としては各地の優れた人物を調べて推薦して官吏とするものであったが、結果として有力な貴族が官職を独占できるようになってしまい、早い時点で「上品に寒門なく、下品に勢族なし」との批判があった。結局九品官人法は、隋代まで続き、この間の貴族による政治体制を助けることとなった。
 
三国は基本的に魏と呉・蜀同盟との争いを軸としてしばしば交戦したが、蜀がまず[[w:263年|263年]]に魏に滅ぼされ、その魏も有力な臣下であった[[w:司馬炎|司馬炎]]に[[w:265年|265年]]に皇帝の位を譲るという形で滅亡した。司馬炎は皇帝となって国号を[[w:西晋|晋]]と命名し、さらに[[w:280年|280年]]に呉を滅ぼし、中国を統一した。しかし、[[w:300年|300年]]から帝位をめぐって各地の皇族が戦争を起こした([[w:八王の乱|八王の乱]])。このとき、[[w:五胡|五胡]]と呼ばれる異民族を軍隊として用いたため、これらの五胡が非常に強い力を持つようになった。[[w:316年|316年]]には、五胡の1つである[[w:匈奴|匈奴]]が晋をいったん滅ぼした。これ以降、中国の北方は、五胡の建てた国々が支配し、南方は江南に避難した晋王朝(南に移ったあとの晋を[[w:東晋|東晋]]という)が支配した。この時期は、戦乱を憎み、宗教に頼る向きがあった。代表的な宗教が[[w:仏教|仏教]]と[[w:道教|道教]]であり、この2つの宗教は時には激しく対立することがあった。
 
さて、江南を中心とする中国の南方では、異民族を恐れて、中国の北方から人々が多く移住してきた。これらの人々によって、江南の開発が進み、それに伴い、貴族が大土地所有を行うということが一般的になり、貴族が国の政治を左右した。一部の貴族の権力は、しばしば皇帝権力よりも強かった。これらの貴族階層の者により[[w:散文|散文]]、[[w:書画|書画]]等の[[w:六朝文化|六朝文化]]と呼ばれる文化が発展した。東晋滅亡後、[[w:宋 (南朝)|宋]]・[[w:斉 (南朝)|斉]]・[[w:梁 (南朝)|梁]]・[[w:陳 (南朝)|陳]]という4つの王朝が江南地方を支配したが、貴族が強い力を握ることは変わらなかった。梁の[[w:武帝 (南朝梁)|武帝]]は仏教の保護に努めた。
 
北方では、[[w:鮮卑|鮮卑]]族の王朝である[[w:北魏|北魏]]が台頭し、[[w:439年|439年]]には、[[w:華北|華北]]を統一した。[[w:471年|471年]]に即位した[[w:孝文帝 (北魏)|孝文帝]]は[[w:漢化政策|漢化政策]]を推し進めた。また、土地を国家が民衆に割り振る[[w:均田制|均田制]]を始め、[[w:律令制|律令制]]の基礎付けをした。しかし、このような漢化政策に反対する人がいたこともあり、北魏は、[[w:西魏|西魏]]と[[w:東魏|東魏]]に分裂した。西魏は[[w:北周|北周]]へと、東魏は[[w:北斉|北斉]]へと王朝が交代した。[[w:577年|577年]]には北周が北斉を滅ぼしたが、[[w:581年|581年]]に隋が北周にとって代わった。[[w:589年|589年]]に隋は南方の陳を滅ぼし、中国を統一した。
 
[[w:魏晋南北朝表|魏晋南北朝表]]も参照。
 
===隋唐帝国===
中国を統一した[[w:隋|隋]]の[[w:文帝 (隋)|文帝]]は、[[w:均田制|均田制]]・[[w:租庸調制|租庸調制]]・[[w:府兵制|府兵制]]などを進め、中央集権化を目指した。また同時に[[w:九品中正法|九品中正法]]を廃止し、試験によって実力を測る[[w:科挙|科挙]]を採用した。しかし、文帝の後を継いだ煬帝は、江南・華北を結ぶ大運河を建設したり、度重なる遠征を行ったために、民衆の負担が増大した。このため農民反乱が起き、[[w:618年|618年]]に隋は滅亡した。
 
隋に代わって、中国を支配したのが、[[w:唐|唐]]である。唐は基本的に隋の支配システムを受け継いだ。[[w:626年|626年]]に即位した[[w:太宗|太宗]]は、租庸調制を整備し、律令制を完成させた。唐の都の[[w:長安|長安]]は、当時世界最大級の都市であり、各国の商人などが集まった。唐時代には、[[w:ゾロアスター教|ゾロアスター教]]・[[w:景教|景教]]・[[w:マニ教|マニ教]]をはじめとする各地の宗教が流入した。また、文化史上も、唐時代の文学は最高のものとされる。
 
[[w:712年|712年]]に即位した[[w:玄宗|玄宗]]は国内の安定を目指したが、すでに律令制は制度疲労を起こしていた。また、周辺諸民族の統治に失敗したため、辺境に強大な軍事力が置かれた。これを[[w:節度使|節度使]]という。節度使は、後に軍権以外にも、民政権・財政権をももつようになり、力を強めていく。[[w:763年|763年]]には、節度使の[[w:安禄山|安禄山]]たちが[[w:安史の乱|安史の乱]]と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は何とか鎮圧されたが、各地で土地の私有([[w:荘園|荘園]])が進み、土地の国有を前提とする均田制が行えなくなっていった。結局、政府は土地の私有を認めざるを得なくなった。結果として、律令制度は崩壊した。[[w:875年|875年]]から[[w:884年|884年]]には[[w:黄巣の乱|黄巣の乱]]と呼ばれる農民反乱がおき、唐王朝の権威は失墜した。このような中、各地の節度使はますます権力を強めた。[[w:907年|907年]]には、節度使の1人である[[w:朱全忠|朱全忠]]が唐を滅ぼした。
 
===五代十国・宋===
唐の滅亡後、各地で節度使が争った。この時代を[[w:五代十国時代|五代十国時代]]という。この戦乱を静めたのが、[[w:960年|960年]]に皇帝となって[[w:北宋|宋]]を建国した[[w:趙匡胤|趙匡胤]]である。ただし、完全に中国を宋が統一したのは趙匡胤の死後の[[w:976年|976年]]である。
 
趙匡胤は、節度使が強い権力をもっていたことで戦乱が起きていたことを考え、軍隊は文官が率いるという[[w:文治主義|文治主義]]をとった。また、これらの文官は、[[w:科挙|科挙]]によって登用された。宋からは、科挙の最終試験は皇帝自らが行うものとされ、科挙で登用された官吏と皇帝の結びつきは深まった。また、多くの国家機関を皇帝直属のものとし、中央集権・皇帝権力強化を進めた。科挙を受験した人々は大体が、地主層であった。これらの地主層を[[w:士大夫|士大夫]]と呼び、のちの[[w:清|清]]時代まで、この層が皇帝権力を支え、官吏を輩出し続けた。
 
唐は、その強大な力によって、周辺諸民族を影響下においていたが、唐の衰退によってこれらの諸民族は自立し、独自文化を発達させた。また、宋は文治主義を採用していたため、戦いに不慣れな文官が軍隊を統制したので、軍事力が弱く、周辺諸民族との戦いにも負け続けた。なかでも、[[w:契丹|契丹族]]の[[w:遼|遼]]・[[w:タングート|タングート族]]の[[w:西夏|西夏]]・[[w:女真|女真族]]の[[w:金 (王朝)|金]]は、中国本土にも侵入し、宋を圧迫した。これらの民族は、[[w:魏晋南北朝時代|魏晋南北朝時代]]の[[w:五胡|五胡]]と違い、中国文化を唯一絶対なものとせず、独自文化を保持し続けた。このような王朝を[[w:征服王朝|征服王朝]]という。後代の[[w:元 (王朝)|元]]や清も征服王朝であり、以降、中国文化はこれらの周辺諸民族の影響を強く受けるようになった。
 
[[w:1127年|1127年]]には、金の圧迫を受け、宋は、江南に移った。これ以前の宋を[[w:北宋|北宋]]、以降を[[w:南宋|南宋]]という。南宋時代には、江南の経済が急速に発展した。また、すでに唐代の終わりから、陸上の東西交易は衰退していたが、この時期には、[[w:ムスリム|ムスリム]]商人を中心とした海上の東西交易が発達した。当時の宋の特産品であった[[w:陶磁器|陶磁器]]から、この交易路は[[w:セラミックロード|セラミックロード]]と呼ばれる。
 
文化的には、経済発展に伴って庶民文化が発達した。また、士大夫の中では新しい学問をもとめる動きが出て、儒教の一派として[[w:朱子学|朱子学]]が生まれた。
 
===モンゴル帝国===
[[w:13世紀|13世紀]]初頭に[[w:モンゴル高原|モンゴル高原]]で、[[w:チンギス・ハーン|チンギス・ハーン]]が、モンゴルの諸部族を統一し、[[w:ユーラシア大陸|ユーラシア大陸]]各地へと、征服運動を開始した。モンゴル人たちは、[[w:東ヨーロッパ|東ヨーロッパ]]、[[w:ロシア|ロシア]]、[[w:小アジア|小アジア]]、[[w:メソポタミア|メソポタミア]]、[[w:ペルシャ|ペルシャ]]、[[w:アフガニスタン|アフガニスタン]]、[[w:チベット|チベット]]に至る広大な領域を支配し、この帝国は[[w:モンゴル帝国|モンゴル帝国]]と呼ばれる。中国もまた征服活動の例外ではなかった。当時、黄河が南流し、山東半島の南に流れていたため、漢民族は北方民族の攻勢を防げなかった。華北は満州系の女真族による[[w:金 (王朝)|金]]が、南部を[[w:南宋|南宋]]が支配していたが、金は[[w:1234年|1234年]]、南宋は[[w:1279年|1279年]]にモンゴルに滅ぼされた。
 
モンゴル帝国は各地に王族や漢人有力者を分封した。モンゴル帝国の5代目の君主([[w:ハーン|ハーン]])に[[w:クビライ|クビライ]]が即位すると、これに反発する者たちが、反乱を起こした。結局、モンゴル帝国西部に対する大ハーン直轄支配は消滅し、大ハーンの政権は中国に軸足を置くようになった。もっとも、西方が離反しても、帝国としての緩やかな連合は保たれ、ユーラシアには平和が訪れていた。[[w:1271年|1271年]]にクビライは[[w:元 (王朝)|元]]を[[w:国号|国号]]として中国支配をすすめた。
 
モンゴル帝国(元)は未だ征服していなかった南宋への牽制のためにも日本に対して通交を求めたが、日本側は断った。このため二度に渡り日本に侵攻したが、成功しなかった([[w:元寇|元寇]])。元は三度目の日本侵攻を計画したが、実現には至らなかった。
 
中国南部を支配していた南宋を1279年に元が滅ぼしたのはすでに見たとおりである。
 
元の中国支配は、伝統的な中国王朝とは大きく異なっていた。元は中国の伝統的な統治機構を採用せず、遊牧民の政治の仕組みを中国に移入したからである。元の支配階級の人々は、すでに西方の優れた文化に触れていたため、中国文化を無批判に取り入れることはなかった。それは政治においても同様だったのである。それに伴い、伝統的な統治機構を担ってきた、儒教的な教養を身に付けた士大夫層は冷遇され、政権から遠ざけられた。そのため、彼らは曲や小説などの娯楽性の強い文学作品の執筆に携わった。この時代の曲は[[w:元曲|元曲]]と呼ばれ、中国文学史上最高のものとされる。また、モンゴル帝国がユーラシア大陸を広く支配したために、この時期は東西交易が前代に増して盛んになった。
 
元は、宮廷費用などを浪費しており、そのため塩の専売策や紙幣の濫発で収入を増やそうとした。しかし、これは経済を混乱させるだけであった。そして、庶民の生活は困窮した。こうした中、各地で反乱が発生した。中でも最大規模のものは[[w:1351年|1351年]]に勃発した[[w:紅巾の乱|紅巾の乱]]であった。紅巾党の中から頭角をあらわした[[w:朱元璋|朱元璋]]は、[[w:1368年|1368年]]に[[w:南京|南京]]で皇帝に即位して[[w:明|明]]を建国した。同年、朱元璋は元の都の[[w:大都|大都]]を陥落させ、元の政府はモンゴル高原へと撤退した。撤退後の元のことを[[w:北元|北元]]といい、明と北元はしばしば争った。明側は[[w:1388年|1388年]]に北元は滅んだと称しているが、実質的にはその後も両者の争いは続いた。
 
===明清帝国===
[[w:洪武帝|洪武帝]]の死後、孫の[[w:建文帝|建文帝]]が即位したが、洪武帝の四男である[[w:永楽帝|朱棣]]が反乱([[w:靖難の変|靖難の変]])を起こし、永楽帝として皇帝になった。永楽帝は、モンゴルを攻撃するなど、積極的に対外進出を進めた。また、[[w:鄭和|鄭和]]を南洋に派遣して、諸国に[[w:朝貢|朝貢]]を求めた。
 
永楽帝の死後、[[w:明|明]]は[[w:海禁政策|海禁政策]]をとり、貿易を著しく制限することとなる。その後、モンゴルが再び勢力を強めはじめ、[[w:449年|449年]]には皇帝がモンゴルの捕虜になるという事件([[w:土木の変|土木の変]])まで起きた。同じ頃、中国南部沿岸には、[[w:倭寇|倭寇]]と呼ばれる海上の無法者たちが襲撃を重ねていた。これは、海禁政策で貿易が自由にできなくなっていたためである。倭寇とモンゴルを併称して北虜南倭というが、北虜南倭は明を強く苦しめた。
 
また、皇帝による贅沢や多額の軍事費用の負担は民衆に重税となって圧し掛かってきた。これに対し、各地で反乱がおき、その中で頭角をあらわした[[w:李自成|李自成]]が[[w:1644年|1644年]]に明を滅ぼした。
 
[[w:17世紀|17世紀]]初頭には、現在の中国東北地方で[[w:ヌルハチ|ヌルハチ]]が女真族を統一した。その子の[[w:ホンタイジ|ホンタイジ]]は中国東北地方と[[w:内モンゴル|内モンゴル]]を征服し、[[w:1636年|1636年]]にはモンゴル人から元の[[w:玉璽|玉璽]]を譲られ、[[w:清|清]]を建国した。李自成が明を滅ぼすと清の軍隊は万里の長城を越えて、李自成の軍隊を打ち破り、中国全土を支配下に置いた。[[w:17世紀|17世紀]]後半から[[w:18世紀|18世紀]]にかけて、[[w:康熙帝|康熙帝]]・[[w:雍正帝|雍正帝]]・[[w:乾隆帝|乾隆帝]]という3人の皇帝の下で、清の支配領域は中国本土と中国東北地方・モンゴルのほかに、[[w:台湾|台湾]]・[[w:東トルキスタン|東トルキスタン]]・[[w:チベット|チベット]]にまで及んだ。
 
この清の支配領域が大幅に広がった時期は、『[[w:四庫全書|四庫全書]]』の編纂など文化事業も盛んになった。しかし、これは学者をこのような事業に動員して、異民族支配に反抗する暇をなくそうとした面もあった。
 
明代の後期には、[[w:メキシコ|メキシコ]]や[[w:日本|日本]]から大量の[[w:銀|銀]]が中国に流入し、貨幣として基本的に銀が使われるようになった。そのため、政府も[[w:一条鞭法|一条鞭法]]と呼ばれる税を銀で払わせる税法を始めた。また、清代に入ると、[[w:人頭税|人頭税]]を廃止し土地課税のみとする[[w:地丁銀制|地丁銀制]]が始まった。また明清両代ともに商品経済が盛んになり、農業生産も向上した。
 
===中国の半植民地化===
[[w:18世紀|18世紀]]が終わるまでには、清とヨーロッパとの貿易は[[w:イギリス|イギリス]]がほぼ独占していた。しかし、当時イギリスの物産で中国に売れるものはほとんどなく、逆に中国の安いお茶はイギリスの労働者階級を中心に大きな需要があったこともあり、イギリスは貿易赤字に苦しんだ。そこで、イギリスは[[w:麻薬|麻薬]]である[[w:アヘン|アヘン]]を中国に輸出し始めた。結果、イギリスは大幅な貿易黒字に転じた。しかし、中国にはアヘン中毒者が蔓延し、この事態を重く見た清朝政府は、[[w:1839年|1839年]]に[[w:林則徐|林則徐]]に命じてアヘン貿易を取り締まらせた。しかし、これに反発したイギリス政府は清に対して翌[[w:1840年|1840年]]宣戦布告した。[[w:アヘン戦争|アヘン戦争]]と呼ばれるこの戦争では、工業化をとげ、近代兵器を持っていたイギリス軍が勝利した。これ以降、イギリスをはじめとするヨーロッパの列強による中国の半植民地化が進んだ。
 
国内的には、[[w:太平天国の乱|太平天国の乱]]などの反乱もしばしば起きた。これに対し、[[w:同治帝|同治帝]](在位[[w:1861年|1861年]] - [[w:1875年|1875年]])の治世の下で、ヨーロッパの技術の取り入れ([[w:洋務運動|洋務運動]])が行われた。
 
[[w:1894年|1894年]]から翌[[w:1895年|1895年]]にかけて清と[[w:大日本帝国|日本]]との間で行われた[[w:日清戦争|日清戦争]]にも清は敗退した。これは洋務運動の失敗を意味するものであった。この戦争の結果、日本と清との間で結んだ[[w:下関条約|下関条約]]により、[[w:李氏朝鮮|李氏朝鮮]]の独立が認められ、中国の王朝が長年続けてきた[[w:冊封体制|冊封体制]]が崩壊した。
 
その後、清朝政府は改革を進めようとしたものの、沿岸地域を[[w:租借|租借]]地とされるなどのイギリス・[[w:フランス|フランス]]・[[w:ロシア帝国|ロシア]]・[[w:ドイツ|ドイツ]]・[[w:アメリカ合衆国|アメリカ合衆国]]・日本による半植民地化の動きは止まらなかった。結局、[[w:1911年|1911年]]の[[w:武昌|武昌]]での軍隊蜂起をきっかけに[[w:辛亥革命|辛亥革命]]が起こり、各地の省が清からの独立を宣言した。翌[[w:1912年|1912年]][[w:1月1日|1月1日]]、革命派の首領の[[w:孫文|孫文]]によって[[w:南京|南京]]で[[w:中華民国|中華民国]]の樹立が宣言された。[[w:北京|北京]]にいた清の皇帝[[w:溥儀|溥儀]](宣統帝)は、清朝政府内部の実力者である[[w:袁世凱|袁世凱]]により[[w:2月12日|2月12日]]に退位させられ、清は完全に滅亡した。
 
=== 中華民国 ===
[[w:中華民国|中華民国]]は成立したものの、実際は各地の[[w:軍閥|軍閥]]が群雄割拠する状態であり、列強による中国の半植民地化も止まらなかった。[[w:清|清]]朝時代からの権益保持を狙う[[w:イギリス|イギリス]]は[[w:ロシア|ロシア]]、[[w:日本|日本]]を牽制するために[[w:モンゴル|モンゴル]]、[[w:ウイグル|ウイグル]]、[[w:満州|満州]]諸族を中華民国が支配することを認めながら、[[w:チベット|チベット]]を保護下に収めた。そんな中、孫文の後継者である[[w:蒋介石|蒋介石]]は、[[w:1926年|1926年]]に[[w:広州|広州]]から[[w:北伐|北伐]]を開始し、ほぼ中国全土を支配するに至った。蒋介石は経済近代化のための新通貨(法幣)の権益をイギリスに与えることにより、[[w:姻族|姻族]]の[[w:宋|宋]]氏と共に民国の政治・軍事・経済を独裁的に掌握することとなった。
 
[[w:1921年|1921年]]には[[w:中国共産党|中国共産党]]が成立し、一時蒋介石率いる[[w:中国国民党|中国国民党]]とも協力していた。しかし、蒋介石は[[w:共産主義|共産主義]]を敵視していたため両者の協力関係は終わり、中国共産党は[[w:毛沢東|毛沢東]]の指揮のもと、農村を中心としてその支配領域を広げていった。これに対し、蒋介石は断固とした攻撃を加え[[w:瑞金|瑞金]]に包囲し、[[w:延安|延安]]に追った。
 
[[w:ソビエト連邦|ソビエト連邦]]が樹立した[[w:モンゴル人民共和国|モンゴル人民共和国]]に対抗するため、日本は1931年に[[w:張景恵|張景恵]]ら満州軍閥と共同して、蒋介石の満州進出に了解を与えた[[w:張学良|張学良]]を追い、[[w:満州国|満州国]]を独立させた。[[w:1937年|1937年]]には、日本軍が中国本土に侵入し、中華民国と全面戦争に入った([[w:日中戦争|日中戦争]])。これに対し、蒋介石は当初日本との戦いよりも中国共産党との戦いを優先していたが、[[w:西安事件|西安事件]]により、二つの党が協力して日本と戦うことになった。
 
しかし日中戦争は当初日本軍優位に進み、日本軍は多くの都市を占領したが、各拠点支配はできても広大な中国において面での支配はできず、これを利用した国民党軍・共産党軍ともに各地でゲリラ戦を行い日本軍を苦しめ、戦線を膠着させた。日本は[[w:汪兆銘|汪兆銘]]ら国民等左派を懐柔、[[w:南京国民政府|南京国民政府]]を樹立させたが、国内外ともに支持は得られなかった。加えて[[w:1941年|1941年]]12月、日本はアメリカやイギリス(連合国)とも戦端を開いたが([[w:太平洋戦争|太平洋戦争]])、一方で中国で多くの軍隊を釘付けにされるなど、苦しい状況に落ち込まされた。国民党政府は連合国側に所属し、アメリカなどの豊富な救援を受けることとなった。
 
結局戦争は[[w:1945年|1945年]]8月日本が無条件降伏することで終結した。国民党政府は連合軍に所属していたこともあり、戦勝国として有利な立場を有することとなり、日本だけでなく、ヨーロッパ諸国も[[w:租界|租界]]を返還するなど、中国の半植民地化は一応の終わりを見せた。
 
しかしまもなく国民党と共産党との対立が激化して、[[w:国共内戦|国共内戦]]が勃発し、結果として中国共産党が勝利した。[[w:1949年|1949年]][[w:10月1日|10月1日]]に毛沢東が[[w:中華人民共和国|中華人民共和国]]の成立を宣言した。内戦に敗れた中国国民党は[[w:台湾|台湾]]に撤退し、引き続き現在にいたるまで中華民国と名乗っているが、国家承認している国は30ヶ国程度である。
 
===中華人民共和国===
成立後の[[w:中華人民共和国|中華人民共和国]]政府は「反革命分子」を相次いで処刑し、その数は政府発足から6年間で少なくとも1000万人以上に達すると言われる。また、[[w:1950年代|1950年代]]に[[w:チベット|チベット]]を「解放」の名目で軍事制圧し、ここでも数十万人の大虐殺を行なったとされる。チベットの最高指導者、[[w:ダライ・ラマ|ダライ・ラマ]]は[[w:インド|インド]]に亡命し、未だ帰還していない。
 
[[w:1953年|1953年]]より[[w:社会主義|社会主義]]化が進み、人民政治協商会議に代わって[[w:全国人民代表大会|全国人民代表大会]]が成立、農業生産合作社が組織された。[[w:1958年|1958年]]、[[w:毛沢東|毛沢東]]は[[w:大躍進政策|大躍進政策]]を開始し、[[w:人民公社|人民公社]]化を推進した。しかし、無計画に進められた大躍進政策は2000万人~4000万人以上とも言われる大量の餓死者を出して失敗に終わった。その後、[[w:劉少奇|劉少奇]]が経済調整を行うがこの行いに毛沢東と支持者が猛反発し、[[w:1966年|1966年]]に毛沢東は[[w:文化大革命|文化大革命]]を発動させ劉少奇とその支持者らを政治の舞台から追い出した。
 
この文化大革命は政治だけでなく一般にも多大な影響を与え、青少年によって結成された[[w:紅衛兵|紅衛兵]]が反革命派とされた人間をつるし上げたりしていた。後期になると国内の内乱状態を引き起こし、最終的に[[w:1976年|1976年]]の毛沢東死去で終結した。各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は2000万人とも言われている。その後は一旦[[w:華国鋒|華国鋒]]が後を継いだが失脚し、[[w:トウ小平|鄧小平]]が政権を握った。鄧小平は、政治体制は共[[w:共産党|共産党]][[w:一党独裁|一党独裁]]を堅持しつつ、[[w:資本主義|資本主義]]経済導入などの開放政策を取り、[[w:近代化|近代化]]を進めた。
 
[[w:1989年|1989年]]には北京で、[[w:民主化|民主化]]を求める学生や市民のデモ([[w:六四天安門事件|天安門事件]])が起きた。しかし、これは政府により武力鎮圧された。その一連の民主化運動の犠牲者数は中国共産党政府の報告と諸外国の調査との意見の違いがあるが、数百人から数十万人に上るといわれている。天安門事件後の[[w:1990年代|1990年代]]には、[[w:江沢民|江沢民]]政権のもとで、鄧小平路線に従い、経済の改革開放が進み、「世界の工場」と呼ばれるほどに経済は急成長した。ただ、急激な経済成長に伴う貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。また、政治の民主化も進んでいないとする国内外からの批判も根強い。なお、少数民族が住む[[w:新疆ウイグル自治区|新疆ウイグル自治区]]([[w:東トルキスタン|東トルキスタン]])や[[w:チベット自治区|チベット自治区]]では、現在も独立を求める動きがある。
 
[[Category:歴史|ちゆうこくし]]