「小学校社会/6学年/歴史編/武家社会の始まり-鎌倉時代」の版間の差分

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:13世紀初め中国北西部に接するモンゴル({{ruby|蒙古|もうこ}})にチンギス・ハーン(ジンギス・カン<ref>「チンギス(ジンギス)」が名で、「ハーン(カン : 漢字で『汗』)」が国王の意味です。</ref>)がモンゴル帝国を開き、はげしい勢いでユーラシア大陸全土にわたって勢力範囲を広げました。モンゴル帝国は南下して、「{{ruby|金|きん}}<ref>中国北東部・朝鮮半島北部に住んでいた{{ruby|女真族|じょしんぞく}}が建てた国。1125年南下し、「[[#宋|宋]]」を長江の南に押し出し、黄河流域に帝国を作っていました。</ref> 」を滅ぼし、代わって「'''元'''」という国を建てました。元はさらに、朝鮮半島の{{ruby|高麗|こうらい}}も領土とし、長江の南にあった「[[#宋|宋]]<ref>金に押し出された後を「{{ruby|南宋|なんそう}}」といいます。</ref>」に攻め入ろうとしていました。
:元は、日本にも使者を送り、元にしたがうよう要求しました。執権'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#北条時宗(ほうじょうときむね)|北条時宗]]|ほうじょうときむね}}'''は、使者を切り殺し、これを断りました。
:1274年、元は、日本を{{ruby|侵略|しんりゃく}}するため、朝鮮半島から3~4万人の兵を出し、対馬、壱岐を攻め落とした後、九州北部に上陸しました。幕府は九州各地の御家人を集め応戦しました。元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と{{ruby|呼|よ}}ばれた)、毒矢、元軍の集団戦<ref>それまでの日本の武士の戦いは、お互いが名乗りをあげて一騎討ちをするのが一般的でした。</ref>といったものに苦戦しましたが、これを撃退しました({{ruby|文永|ぶんえい}}の役)。
:この戦いのあと、幕府は、今の福岡県にある{{ruby|博多|はかた}}湾の沿岸に防衛用のの{{ruby|石垣|いしがき}}'''{{ruby|石塁|せきるい}}'''を築き、九州だけでなく各国の御家人と御家人ではない武士を九州北部と長門国に集め、次のモンゴル軍がせめこんで侵略してくるのに備えました。
:1281年に、元の軍勢は、14万人もの大軍を率いてふたたび日本におそいかかりを侵略しました。日本は十分に準備をしていたのにくわえ、ちょうど、台風が通過しモンゴルの船団に大きな被害を出し、撃退することに成功しました({{ruby|弘安|こうあん}}の役)。
:この2度の元の{{ruby|襲来|しゅうらい}}侵略 あわせて '''{{ruby|元寇|げんこう}}''' といいます。
:撃退に成功したものの、幕府は得るものがなかったので恩賞を十分に与えることができず、各地の武士には、大きな不満が残りました。また、御家人だけではなく、その他の武士も元寇にそなえるよう北部九州や{{ruby|長門|ながと}}国(現在の山口県)に集めたため、御家人でない武士は、御家人と同じとりあつかいにするようもとめました。