「中学受験社会/歴史/下巻」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
椎楽 (トーク | 投稿記録)
タグ: 差し戻し済み
800 行
1937年7月、北京(ペキン)にある盧溝橋(ろこうきょう)という地区で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれ、戦闘になりました。この事件を'''盧溝橋事件'''(ろこうきょう じけん)といいます。
 
そして、これを口実に日本は軍をさらに送り、事実上の戦争になりましたが、当時は「北支事変」(後に{{ruby|支那|しな}}<ref>「支那」とは、昔の中国の地理的名称(特定の国などを対象としない呼び方)。当時、日本は中国のことをこのように呼んでいました。'''現在の日本では、地理的名称としても「中国」を使うようになっています。{{要出典範囲|現在は中国をけいべつするために使う言葉とされているので使用しません'''}}。</ref>事変)と呼びました<ref>当時の日本政府が「支那事変」を正式の呼称だとするまでは、一般的に「日華事変」と呼ばれていました。また、「日支事変」と呼ぶ場合もありました。</ref>。もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、宣戦布告せず、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいたのです(中国側も同様の理由で宣戦布告せず、事変戦争」という語を用いませんでした)。また、この戦闘をもって、'''日中戦争'''(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もあります<ref>両国は、宣戦布告を行っていないため、当時は「日中戦争」と呼んでいませんでした。また、「日中戦争」という名称には「宣戦布告していないことが分からない」という指摘もあります。</ref>
 
なぜ盧溝橋に日本軍がいたかというと、義和団の乱の事後処理について1901年にむすばれた北京議定書に基づいて、日本軍などの外国軍が、この盧溝橋の周辺に駐留(ちゅうりゅう)していた。
814 行
その後、上海でも戦闘が始まり、日本と中国とは全面的な戦争に入っていきます。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略しました。(おそらく日本は首都の南京をおとせば蒋介石が降伏するだろう、と考えたのだろう。)国民党の支配者の蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は、つづいた。
 
南京攻略のとき、日本軍によって、中国の民間人や捕虜多数殺害しの死傷者が出ました(南京事件)。これは1937年12月から1938年初めごろまでに起こったといわれています。なお、この事件を '''南京事件'''(ナンキンじけん)<ref>南京{{ruby|虐殺|ぎゃくさの犠牲者数などの実態に}}事件といては資料の上で疑問出され、さまざま見解があり、今日でも調査や研究が続います。被害<ref>この事件の実態あった規模ついて様々な調査や研究があり続いているほか、ときどき論争にもなっています。この事件は1938年初めごろには欧米のマスコミで報道され、日本軍にたいする非難が高まりました。当時の日本のマスコミはが、軍によってコントロールさていたため、日本の当時のマスコミは報道されることはなくしませんでした。また大多数研究者日本人は戦後立場このよっては、「南京事件について知」以外の名称を使用する場合もありました。</ref>といいます
 
この日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していた。アメリカは、おもに中国の国民党を援助した。アメリカは援助にとどまり、まだ、戦闘には参加していない。
833 行
Image:Advance All Japanese people are 100 million balls of fire.JPG|「進め一億火の玉だ」
</gallery>
 
=== 注 ===
<references />