「小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代」の版間の差分

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; 大日本帝国憲法の制定
: 明治維新の改革は、五箇条の御誓文の方針によりなされましたが、改革が進み近代文明国としての形がひととおり整ってきたところ、さらに政治の形を確かなものとし、人々の権利を明らかにするため、'''憲法'''の制定と選挙によって選ばれた議員による議会を開くことが求められました。'''板垣退助'''や'''大隈重信'''は国会の開設を求めて、政党をつくりました。'''伊藤博文'''を中心とした明治政府は欧米諸国の憲法を研究し、1885年に'''内閣制度'''が創設され、1889年に'''大日本帝国憲法'''が発布されました。翌年憲法の精神に基づいて、初めて総選挙が行われ'''帝国議会'''(国会)が召集されました。
; 領土問題
: 北方領土は、古くから日本人の生活の舞台だったので'''{{Ruby|日露和親条約|にちろわしんじょうやく}}'''を通じて明確に'''日本固有の領土'''になりましたが、国際法に違反してソ連(現在のロシア)が日本を侵略する際に、北方領土を奪い、{{Ruby|'''不法占拠'''|ふほうせんきょ}}しました。日本政府は、ロシアの侵略に抗議を続けています。
: 竹島は、古くからあしか猟の舞台として親しまれてきました。日本政府は、竹島への{{Ruby|領有権|りょうゆうけん}}が日本にあることを確認した上で正式に日本に{{Ruby|編入|へんにゅう}}することを閣議決定し、'''日本固有の領土'''となりました。しかし、韓国が国際法に違反して{{Ruby|李承晩|りしょうばん}}ラインを引いて竹島を侵略し、'''不法占拠'''しました。このとき、おびただしい数の日本人が殺害されました。日本政府は、韓国の侵略に強く抗議しています。
: 尖閣諸島は、清(現在の中国)をはじめとするどこの国の支配も及んでいないことを慎重に確認した上で編入することを閣議決定しました。その後、多くの日本人による開拓が進み、漁業をはじめとする産業が盛んになりました。しかし、尖閣諸島周辺の海域に油田などの資源の存在が確認されると、中国が領有権を主張し、尖閣諸島海域に侵入するなど、侵略的な行動を繰り返すようになりました。日本政府は、中国の侵略的な行動に強く抗議していますが、日本政府の実効支配は及んでおり、'''解決すべき{{Ruby|領土問題|りょうどもんだい}}は存在しません'''。
; 日清戦争と日露戦争
: 急激な近代化に成功した日本は、国内で拡大した産業の新たな市場を求め大陸に進出しようとします。朝鮮は中国の帝国'''{{ruby|清|しん}}'''の属国でしたが、その影響で近代化が進んでおらず、朝鮮国内の近代化を求める人々は日本と協力して清の影響から逃れようとしました。朝鮮国内の清に従う保守派と改革派の争いに日本と清はそれぞれ兵を出すなどして緊張が高まり、1894年朝鮮半島西岸における両国海軍の接触をきっかけに'''日清戦争'''が始まりました。日本は清の北洋海軍を壊滅させ、遼東半島を占領するなど戦いを有利に進め、翌年、'''陸奥宗光'''外務大臣と清の提督である李鴻章が交渉し、清の日本への賠償や台湾・遼東半島の割譲などを定めた下関条約が締結され講和が結ばれました(日本の勝利)。
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:#*例えば、女性には選挙権は認められることはありませんでした。また、民法で家族や相続は家制度によったため、女性は不利な取り扱いを受けました。
:#*後に制定される治安維持法は、政治思想(特に[[小学校社会/6学年/歴史編/戦争への道と現代の民主国家日本の誕生-昭和から現在まで#社会主義と共産主義|社会主義思想・共産主義思想]])を取り締まる法律でした。
 
=== 領土問題 ===
日本には、日本固有の領土であっても、近隣諸国が侵略し、解決すべき領土問題が発生した地域や、近隣諸国が領有権を主張し、侵略的な行動を繰り返している地域があります。
==== 北方領土 ====
17世紀前半には、{{Ruby|蝦夷地|えぞち}}(北海道)の南部を支配していた松前藩が'''{{Ruby|北方領土|ほっぽうりょうど}}'''({{Ruby|'''歯舞群島'''|はぼまいぐんとう}}、{{Ruby|'''色丹島'''|しこたんとう}}、{{Ruby|'''国後島'''|くなしりとう}}、{{Ruby|'''択捉島'''|えとろふとう}})や{{Ruby|'''樺太'''|からふと}}について調査を行っていたこともあって、江戸幕府が作成した地図には、国後島、択捉島、{{Ruby|'''得撫島'''|ウルップとう}}などの島名が書かれていました。
 
こうした島々では、18世紀の半ばから、ロシア人が進出し、日本人の住民との間で対立が起こっていました。そこで幕府は、これらの島々を直接統治すると決め、国後島から択捉島までの調査を行い、択捉島に「'''大日本{{Ruby|恵登呂府|えとろふ}}'''」と書いた標柱を立てました。1801年({{Ruby|享和|きょうわ}}元年)には、約100人の南部藩と津島藩の兵隊を常駐させて、これらの島々を守備しました。
 
1855年({{Ruby|安政|あんせい}}元年)には、幕府はロシアとの間で{{Ruby|'''日露和親条約'''|にちろわしんじょうやく}}を締結し、択捉島と得撫島の間に国境が定められ、北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)は名実ともに'''日本固有の領土'''になりました。樺太については、国境を定めず、両国民の'''{{Ruby|混住|こんじゅう}}の地'''としました。
 
明治に入った1875年(明治8年)には、'''樺太・{{Ruby|千島|ちしま}}交換条約'''を締結し、日本が樺太を譲ることと引き換えに、得撫島より北の{{Ruby|'''千島列島'''|ちしまれっとう}}の島々を日本の領土とすることになりました。
 
その頃、日本人が開拓を進めていた北方領土では、多くの日本人が移住し、'''海産物の加工'''や畜産などが行われるようになりました。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結時には、約1万7000人の日本人が暮らしていました。
 
第二次世界大戦後の占領から独立するために、サンフランシスコ講話条約が締結されると、千島列島を放棄することになりましたが、北方領土は放棄に含まれなかったため、これまで通り、日本の領有権が維持されました。
 
しかし、1945年(昭和20年)にソ連が国際法に違反して北方領土を侵略し、北方領土を'''不法占拠'''していたため、戦後、日本の実行支配が及ぶことはありませんでした。日本政府は、日本固有の領土である北方領土を不法に占拠したソ連に抗議しましたが、返されませんでいた。
 
その後にソ連が崩壊し、ロシアになった後も北方領土に対する'''不法占拠'''は続きました。日本政府は、ロシアに抗議し、北方領土を返還するよう求めていますが、未だに返還されていません(2022年現在)。
 
1980年(昭和55年)には、日露和親条約が締結された2月7日を「'''北方領土の日'''」とすることが国会で決まりました。
 
==== 竹島 ====
島根県の{{Ruby|隠岐島|おきのしま}}の北西にある'''{{Ruby|竹島|たけしま}}'''は、古くは「{{Ruby|'''松島'''|まつしま}}」と呼ばれていました。
 
17世紀初期から江戸幕府が{{Ruby|鎖国政策|さこくせいさく}}の中で、竹島への{{Ruby|渡航|とこう}}を認め、'''あしか{{Ruby|猟|りょう}}'''が行われるようになりました。また、竹島の西にある{{Ruby|'''鬱陵島'''|うつりょうとう}}(当時はこの島を「竹島」と呼んでいた。)に'''あわび漁'''や'''あしか猟'''に行く{{Ruby|際|さい}}の'''{{Ruby|航海|こうかい}}の目印'''や{{Ruby|'''停泊地'''|ていはくち}}としても活用され、遅くとも17世紀半ば頃には、日本は竹島に対する'''領有権'''<ref>領有権とは、国が一定の地域に対して主権を行使することができる権利のことです。領有権は、通常、早い者勝ちですが、領土問題に発展することを避けるため、条約に基づいて行われる事例やどこの国の支配も及んでいないことを調べてから行うこと例もあります。</ref>を確立しました。
 
竹島(松島)でのあしか猟は、明治時代の終わり頃から本格化し、多くの漁民が猟を行うようになり、民間の竹島利用がさかんになりました。
 
こうした中、'''隠岐島民'''が、安定した猟のために竹島を島根県に編入することを政府に願い出ました。これを受けて政府は、1905年(明治38年)1月に竹島の編入を閣議決定して、正式に「'''竹島'''」と命名し、名実ともに'''日本固有の領土'''となりました。
 
こうして政府は、竹島の領有の意思を再確認しました。
 
竹島でのあしか猟は、戦争がはじまる1941年(昭和16年)まで続きました。
 
第2次世界大戦後のサンフランシスコ講和条約においても、韓国は竹島の領有権を主張しましたが、日本固有の領土であることが認められ、日本の領有権は維持されました。
 
しかし、竹島の領有権を主張する韓国は、1952年(昭和27年)、国際法に違反して日本海上に一方的に李承晩ラインを引き、ラインを超えたとする日本漁船を{{Ruby|銃撃|じゅうげき}}・{{Ruby|拿捕|だほ}}・{{Ruby|抑留|よくりゅう}}しました。1954年(昭和29年)には、韓国が竹島に沿岸警備隊を派遣し、竹島を侵略して、竹島を'''不法に占拠'''しました。{{Ruby|李承晩|りしょうばん}}ラインが廃止されるまでの間に、約4000人もの日本人が{{Ruby|抑留|よくりゅう}}され、おびただしい数の人々が殺害されました。
 
日本政府は、こうした韓国の行動に対して厳しく抗議し、{{Ruby|'''国際司法裁判所'''|こくさいしほうさいばんしょ}}へ{{Ruby|付託|ふたく}}して決着をつけることを1954年以来から提案していますが、韓国が応じていません。
 
竹島の不法占拠は、2022現在まで続いています。2005年(平成17年)には、島根県議会が竹島の編入を告示した2月22日を「'''竹島の日'''」と定めました。
==== 尖閣諸島 ====
もともと{{Ruby|'''尖閣諸島'''|せんかくしょとう}}は、どの国にも属さない無人島でしたが、東シナ海を行き来する船に{{Ruby|'''航路標識'''|こうろひょうしき}}として認識されていました。
 
1885年(明治18年)から日本政府は、尖閣諸島について沖縄県を通じて現地調査を行い、無人島であることや当時の清をはじめとする'''どこの国の支配も及んでいない'''ことを慎重に確認した上で、1895年(明治28年)に尖閣諸島を編入し、日本の領土であることを示す標柱を立てることにしました。こうして尖閣諸島は、'''日本固有の領土'''になりました。
 
尖閣諸島では、19世紀末から日本人による開拓が本格化し、多くの人々が移住しました。多い時には、200人以上の人々が暮らしていました。
 
中心となった魚釣島では、「'''{{Ruby|古賀|こが}}村'''」という集落も生まれ、尖閣諸島の開拓が進みました。漁業を中心に、'''かつお節の製造'''や'''羽毛の採取'''などが行われてきました。
 
こうした尖閣諸島に対する'''実行支配'''は、現在も及んでおり、'''領土問題は存在しません'''。
 
1970年代ごろから日本固有の領土である尖閣諸島の海域に油田の存在が確認されると、中国などが領有権を主張するようになりました。
 
そして2010年には、中国の漁船が、尖閣諸島の{{Ruby|'''魚釣島'''|うおつりじま}}の海域で日本の海上保安庁の漁船に衝突する事件が起きました。
 
その後、2012年に尖閣諸島のほとんどを日本政府が国有化したものの、中国は、国際法に違反して{{Ruby|武装|ぶそう}}した中国船を尖閣諸島の海域に侵入させ、日本漁船を追尾して脅迫に近い行動に出るなど、地元の人々は中国の{{Ruby|脅威|きょうい}}に警戒しています。
 
=== 日清戦争と日露戦争 ===