「中学受験社会/歴史/中巻」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
椎楽 (トーク | 投稿記録)
→‎鎌倉時代: 草取りや加筆
椎楽 (トーク | 投稿記録)
84 行
</div>
 
==== 執権政治 ====
<div style="font-size:100%;">
<pre> 
99 ⟶ 100行目:
3代目将軍の実朝は1219年に頼家の子である公暁(くぎょう/こうぎょう)によって殺されます。こうして源氏の直系の将軍は3代約30年で絶えます。その後、京都から藤原氏や皇族から将軍を招きますが、将軍としての力はありませんでした。
[[ファイル:Hojo Masako.jpg|thumb|200px|北条政子(菊池容斎 画、江戸時代)]]
<div style="font-size:100%;">
==== 承久(じょうきゅう)の乱 ====
<pre> 
1221年、朝廷で院政を行っていた'''後鳥羽上皇'''(ごとばじょうこう) は政治の実権を朝廷に取り戻そうとして、北条氏を倒す命令を出しました。
〈北条氏家系図〉
北条氏の幕府軍と、朝廷の軍との戦争になり、北条氏の側が勝ちます。
後鳥羽上皇は島根県の隠岐(おき)という島(しま)に島流し(しまながし)にされ、追放されます。
 
時政(1)━━┳政子
この争乱を<big>承久の乱</big>(じょうきゅう の らん) といいます。
      ┃
      ┗義時(2)━━泰時(3)━━□━━時頼(5)━━時宗(8)━━□━━高時(14)
 
※カッコ内の数字は執権になった順序。
幕府は朝廷や西国を監視するため、京都に <big>六波羅探題</big>(ろくはらたんだい) を置きました。上皇側に味方した勢力の土地は取り上げられました。こうして西国でも幕府の支配は強まっていきました。
</pre>
</div>
1221年、朝廷で院政を行っていた{{ruby|'''後鳥羽上皇'''|ごとばじょうこう}}は政治の実権を朝廷に取り戻そうとして、当時の執権・'''北条義時'''を倒す命令を出しました。これに対して幕府軍が御家人を取りまとめることに成功し、朝廷軍を破りました。この争乱を'''{{ruby|承久|じょうきゅう}}の乱'''といいます。敗れた後鳥羽上皇は{{ruby|隠岐島|おきのしま}}(島根県)に島流しにされました。
 
幕府は朝廷や西国を監視するため、京都に <big>{{ruby|'''六波羅探題</big>('''|ろくはらたんだい}}を置きました。また、上皇側に味方した勢力の土地は取り上げられて御家人たちに与えられました。こうして西国でも幕府の支配は強まっていきました。
承久の乱 のあとである1232年に、執権の北条泰時(ほうじょう やすとき)らにより、武家社会の慣習をもとに新たな法律をつくり、<big>御成敗式目 </big>(ごせいばい しきもく) という法律をつくり、この式目が政治や裁判の よりどころ になった。
 
承久の乱 のあとである1232年に、執権の{{ruby|'''北条泰時'''|ほうじょう やすとき)ら}}により、武家社会の慣習をもとに新たな法律をつくり、<big>ます。これを{{ruby|'''御成敗式目 </big>('''|ごせいばい しきもく}}という法律をつくり、います。この式目が政治や裁判の よりどころ になりました。
幕府にとっては御家人からの信頼(しんらい)が、幕府の権力の基盤(きばん)なので、御家人から信頼されるために公平な法律をつくる必要があったのだろう。
 
鎌倉時代は女の地位が、けっこう高かった。女でも土地の相続(ができ、また女でも地頭(じとう)になれた。
 
==== 人々のくらし ====
119 ⟶ 122行目:
[[Image:Inu ou mono00.jpg|thumb|right|280px|犬追物]]
[[Image:Kyujutsu07.jpg|thumb|right|280px|かさがけ]]
御家人武士たちの{{ruby|屋敷|やしき}}、武家造(ぶけづくり)という作りで、屋敷のまわりに{{ruby||ほり}}があったり、{{ruby||へい}}で囲まれてたりしていて、戦いにそなえたつくりになっています。
 
武士は、日ごろから武芸にはげんでいました。特に。重視されたのは馬に乗って弓矢で的をいるものでした。馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに射るやぶさめ(流鏑馬)、馬に乗りながら的をいるかさがけ(笠懸)、犬などの動く的を射る{{ruby|犬追物|いぬおうもの}}が主に行われていました。
「一所懸命」(いっしょけんめい)という言葉があるが、この言葉は、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子から出来た言葉である。
 
御家人にとって何よりも大切なものは自分の土地でした。{{ruby|一所懸命」(|いっしょけんめい}}」という言葉があるが、この言葉は、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子から出来た言葉である
武士は、日ごろから武芸(ぶげい)に、はげんでいた。やぶさめ(流鏑馬)、かさがけ(笠懸)・犬追物(いぬおうもの)などの武芸に、はげんでいた。3つとも、馬に乗り、弓矢で的をいるものである。
:流鏑馬(やぶさめ)では、馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに射る。
:かさがけでは、馬に乗りながら的をいる。
:犬追物では、犬などの動く的を射る。
この3つの武芸を 騎射三物(きしゃみつもの) という。
犬追物では、やわらかい特殊な矢を使い、犬を殺さないようにしていた。
 
また、鎌倉時代は女の地位が、けっこうかった。く、でも性への土地の相続でき認められまた女でも地頭(じとう)なれました。
===== 庶民のくらし =====
鎌倉時代の農業では鉄を用いた農具が普及し、そのましめ農業が発展。牛や馬にスキをひかせて田を耕すことも行われるようになりました。
 
鎌倉時代には二毛作(にもうさく)が西日本で行われるようになった。稲(いね)と麦との二毛作である。秋に米を収穫し、春に麦を収穫する二毛作である。
 
牛や馬を用いて、牛や馬にスキをひかせて田を耕す方法も行われるようになった。
 
西日本では秋に米を収穫し、春に麦を収穫する{{ruby|二毛作|にもうさく}}が西日本で行われるようになり。ただ草を焼いこれでは土地の栄養がなくなるめ、草や木を焼いた灰( これら草木灰(そうもくばい)という )を、{{ruby|肥料|ひりょう}}として使うようになりました。
 
商業や工業も発展していったきます
 
手工業では、鉄製の農具や武具などを作る{{ruby|鍛冶|かじ}}職人や、大工、ほかにも染め物をする職人など、いろいろな手工業の職人があらわれるようになりました。
 
そうした工業作物など発達もあって商業も発達し品物を売る。定期的にめの{{ruby|市場|いちば)をひらく定期市(ていきいち)}}が、寺社決まった期間(1の付く日などの近く)、毎3ほど決まった日に市が開かれはじめるようになったります。この毎月3回のれを{{ruby|定期市を 三斎市(さんさ|ていち}}といい、寺社などの近くで開かれました
 
商業には貨幣が必要ですが、まだ当時日本は貨幣を作ることができませんでした。そのため、中国大陸から{{ruby|宋銭|そうせん)が多く、日本に}}を輸入されして使用していました。
 
==== モンゴルとの戦い ====