「小学校社会/6学年/歴史編/国際社会に進み出す日本-明治末期から大正時代」の版間の差分

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'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="野口英世"/>野口英世<small>
:本文に書いたとおり、野口英世は、国際的に活躍した細菌学者で、現在、その肖像が1000円札に使われている人です。子供の頃から大変苦労して勉強して、多くの業績を残した人で、皆さんの中で、野口英世の伝記を読んだことのある人も少なくないでしょう。ここでは、野口英世の生涯について簡単に紹介して、なぜ彼が偉人とされているかをお話ししたいと思います。
:1876年(明治9年)、英世<ref>元の名は「清作」で「英世」は22歳になって改名したものですが、ここでは、「英世」で統一します。</ref>は福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町)に生まれます。貧しいというほどではありませんが、決して余裕のある家の生まれではありませんでした。英世は1歳の時に{{ruby|囲炉裏|いろり}}に落ち、左手に大{{ruby|火傷|やけど}}を負います。ただれた皮膚で指がくっついて開かなくなるというひどいものでした。英世は、学校に上がるようになると、このことでいじめられました。しかし、英世の学校の成績はとても素晴らしいものでした。英世の家計では、上級の学校に出すのは難しく、普通は小学校を出て働きに出るとこだったのですが、これをしんだ教師や地域の人がお金を出し合って、上の学校へ進ませました。また、火傷あとが不便であろうと、やはりお金を出し合って、まだ珍しかった西洋医術による手術を受けさせ、左手を使えるようにしました。英世はこの手術の成功に感激したことがきっかけで医師を目指すこととなりました。
:1896年(明治29年)英世は上京し、医学を学びます。1900年(明治33年)米国に渡り、研究を始めます。そして、アメリカを拠点として基礎医学の分野で数々の業績をあげ世界的な名声を得て、何回かノーベル生理学・医学賞の候補者ともなりました。
:1918年(大正7年)以降は{{ruby|黄熱|おうねつ}}病の研究に打ち込み、黄熱病の流行地域である南アメリカ各国やアフリカに渡って研究を続けます。しかし、黄熱病の研究中に自身もその病にかかり、1928年(昭和3年)アフリカのイギリス植民地ゴールド・コースト(現:ガーナ共和国) アクラで亡くなります。